山中律動 Lido-Yamanaka

筆をとって書こうとすれば、書く種は無尽蔵にあるような心持もするし、あれにしようか、これにしようか迷い出すと、もう何を書いてもつまらないのだという呑気な気も起ってきた。(夏目漱石)

山中律動 Lido-Yamanaka

筆をとって書こうとすれば、書く種は無尽蔵にあるような心持もするし、あれにしようか、これにしようか迷い出すと、もう何を書いてもつまらないのだという呑気な気も起ってきた。(夏目漱石)

最近の記事

あわきひかりに

 ここの所行動する範囲は家を中心に2~3kmの円の中で納まるのが常態でしたしたが、久しぶりに掃部山公園に出かけました。  スタコラサッサ・デバリウス、な私でした。  そうすると、県立図書館新館が開館しておりました。

    • 横浜翠嵐高校縁起(坤編)

       神奈川県が中学校を何校置く予定だったか判らないが、おそらく10校越えることは想定していただろう。それに女子の教育機関だった高等女学校と工業・商業・農業などの実科学校を入れたら20以上になる。そこへいかに人口が多くて入学希望者が多いからと言って横浜に3校置く(高女入れて5校)のは県民の公平な教育を考えると不都合になってしまう。  もっとも横浜の場合、後発となる横浜第二中学校、同第三中学校の生徒は第一中学校と比較されやすいのでひけめを感じてしまう。  そのために横浜第二中学校の

      • 横浜翠嵐高校縁起(乾編)

         交差点を右に見れば、首都高三ツ沢線の出口と、沢渡へ向かう対面交通路である。写真左手の白い建物の後ろが翠嵐の林である。首都高は良しとして対面交通路は市営バス34系統沢渡循環が走り、この先のバス停で事故が起きたのは記憶に新しい。  そうしてバス停の隣りは、神奈川県立横浜翠嵐高等学校がある。  古地図には第二中学校とある。  創立時は県立旧制横浜第二中学校と言った。  では第一中学校はどこにあるのか? 東海道を挟んで三ツ沢の丘と反対側、藤棚の丘の上にあった。戦後移転して希望が丘高

        • インター・メッゾ

           三ツ沢の話が想定以上に長くなりそうなので、身辺雑記としてどうでもよさそうな話を。  さて、先述の羽沢の話は折いっての縁で、本当に言いたい事はこれからなのだけれど、全てここに記すかどうかまだ決まっていない。それはそうと所々に2次元ネタを仕込んでみたけれど、如何なものだろうか? もっとも「INVADED BY me」なぞは題名からしてパロです(「にこ襲来」が元也)。無印に関して言えば、何か怪しげな噂が2013年の放映以前から付き纏っていたから距離を置いて見ていた。縁地版(まあ無

          神々もたそがれ…至高の道After

           昭和4年に測量された地図には、三ツ沢へ至るつづら折りの幹線道路は記されていない。そうして三ツ沢は農村然とした環境であることが判る。  次に昭和38年に測量された地図を見る(前掲)。三ツ沢へ至る幹線道路はある。三ツ沢公園は整備されて周辺は市街化が著しい。  三十余年の年月は、三ツ沢を色々と変えてしまった。  その間、戦災があり、復興事業があった。  つづら折りの道は何時出来たのか? ここで国土地理院(旧陸軍省参謀本部測地部)の地図を見る。まず明治40年の地図には、つづら折りで

          神々もたそがれ…至高の道After

          残念坂…至高の道 Half done

           浅間下交差点自体は幹線街路どうしの普通の四辻の交差点だが、三ツ沢へ向かって50mほど行くと左へ分かれる道がある。街路の太さが違うので気付かないが、典型的なY字路である。分かれる道は三ツ沢へ行く道の半分よりやや広い位の対面交通路だ。しばらく行くと宮谷小学校前に出る。若干古めかしい意匠の校舎だが最近建て替えられたもの。しかし学校の校庭に隣り合わせて宮ヶ谷公園があるので、関東地震後の復興事業で整備された小学校だ。古い意匠なのはその経緯を継承する意図があったのだろう。その先でこの道

          残念坂…至高の道 Half done

          センターはどこだ?…至高の道Before

           浅間下交差点を経て三ツ沢に向かうバスの系統数は、横浜市交通局が8系統、相鉄バスが7系統ありそれぞれ34・35・50・83・87・208・209・291、浜1・5・7・10・11・13・44と付番されている。市営バスが殆ど三ツ沢地区を経由して横浜駅西口に戻る路線で大口駅行きや上菅田東部公園(旧旭硝子前)行きがあり、相鉄バスにも横浜駅西口行き3系統の他に新横浜駅行き・小机駅行き、西菅田団地行きなど子系統を合わせると7系統ある。その運行本数の最たるものは横浜駅西口バス停から北軽井

          センターはどこだ?…至高の道Before

          はるかなる三ツ沢

           三ツ沢は六町構成であるので、それぞれの町に行く人が皆同じ道を行くとは限らないが、横浜駅西口からのルートを考えると大体3~4通りになるのではないか。  1.横浜駅西口からバスに乗り浅間下交差点経由で向かう  2.市営地下鉄で三ツ沢下町、三ツ沢上町駅で降りる  3.沢渡経由のバスに乗ってゆく  4.横浜駅西口から鶴屋町三丁目・北幸を経て勧行寺脇の階段道を歩く    バス利用の場合三ツ沢公園や市民病院があるために浅間下交差点ルートは運行本数が多くて一番目のルートがメジャーなようだ

          はるかなる三ツ沢

          不思議の三ツ沢

           ところがこのエリアを散策してみると意外と不思議な印象を感じる。  いや到達する前から既に結構不思議である。  南軽井沢は横浜駅西口商業地区に隣接し、商業地区の北辺は旧東海道に沿う宿場町だったが、そのため旧東海道に併行して環状1号線が通りこれが商業地区の北辺を縁取る。比較的急なカーブを描いたその西側には横浜港山下公園前に端を発し将来的には市の北西端に位置する緑区長津田地区と連絡する山下長津田線という放射幹線道路との浅間町(浅間町)交差点がある。交差点のある所は辛うじて西区浅間

          奥座敷?

           軽井沢という地名は信州の専売特許ではなく、横浜にもある。  そう言っても、そこは真の横浜ではなく、神奈川の一エリアでしかない。現在は南と北に分かれて横浜市中区に属するが、人にはあまり知られていない地名だろうか。そうしてその北側奥は三ツ沢というエリアになる。こちらは横浜市神奈川区だ。東、南、西、上、中、下の六町に分かれて南と北の二町しかない軽井沢と比較すると遥かに広い。神奈川区峰沢町大池に発し反町を経て神奈川区地先海面へ注ぐ滝の川という小河川があるがこの川の中流付近に発達した

          INVADED BY me

           上は憤慨中の大先輩です。  羽沢の件、写真渉猟中に出てきたが、どういう目的で撮ったのかまったく見当が付かない。ただひと月ほど前にこのような面相をしてしまったから、丁度いい契機だった。  さてやつがれは口頭で人に込み入った何かを伝えることが出来にゃーで。  どうしてこうなったのか判らないが、恐らく小学校に上がるまで他人と付き合う機会が殆どなかったので言語野がはざわ野同様に未発達のまま今日まできたのだろう。そうなると無塚しいことを伝えるには文章しかないわけ。だが8年ほど前に某新

          ぶっ飛び一直線…

           放射線街路というのは都心を起点に放射状に延伸する幹線道路で、それに対となる環状街路は都心を中心とした円状に配置される一種のバイパスだ。それは都心に集中する放射線街路からの交通流を分散して迂回させる役割をもっている。現状では羽沢には自動車交通上有意な施設は貨物駅と生花市場しかないようで、そのため羽沢池辺線を当地で終点としたのは同道から羽沢に来る交通流を環状2号線に分散させるのが目的と思える。  しかし横浜市北西部から羽沢池辺線を通ってくる交通の多くは横浜市中心部を目指すからも

          ぶっ飛び一直線…

          役不足?

           インターチェンジである以上、当然二つの道路は立体交差をする。  環状2号線は他の高速道路のように高架上及び築堤上を本線が走るようになっている。ところが羽沢池辺線との交点は同線がそこで行き止まりになりそれより向こう(高島町方)へは行かない。普通の道路であればT字路で済んでしまう。この場合両方の道路は信号による抑制を受けてその通行は円滑ではない。大掛かりな円形を基調としたインターチェンジよりも羽沢池辺線を環状2号線本線分離帯側に降りる形のT字交差としたら施工費用が安く抑えられる

          交差点?

           古の人の考えでは、辻…交差点というのは異なる道どうしが公差するだけの場所ではなく異界との結節点とも捉えられていた。見ず知らずの人と会って話をする機会も多くなり油断できない場所という現実があるのだろう。中でも丁字路は不完全な印象が強いのか、突きあたりの道の先には異界への入口があるとされ、そのため石仏が置かれるのが常識となっていた。一時期流行した石敢當(いしがんとう)などもその一つである。そして四辻を越えてもまた何か問題があるので、特殊な交差点と見られていたし、それは今でもそう

          六道の辻とあさがお坂

           どうやら私は「あほの子」であったようだ。  フードに覆われた線路を何時までも見ていたって面白くなる筈がない。その後どうしたか未だに思い出せないが、あの歩道橋を行ったような気がするし、行かなかったような気がするし。歩道橋に行ったのは別の日だったかもしれない。  フードに沿ってしばらく行くと線路があらわれるが、土曜日の昼下がり過ぎだと通行する貨物列車がそうある筈もなく、やはり退屈である。橋の下は線路が扇形に広がって貨物駅はその向こうである。東側に鉄道の施設らしいビルが見える。西

          六道の辻とあさがお坂

          あの空へ…

           国道16号線直上を…薄く長い納屋のような商店を挟んで併走する相模鉄道線と共に上星川駅直近で横過する不思議な構造物があることに気が付いたのはまだ8歳くらいのことだった。  高架の上はすっぽり覆われた巨大な細長い直方体風でどうやら鉄道の高架線らしいことを予測したが、すぐにそれであると知るきっかけは判らない。  それにつけても異様な構造物だった…それは今でも変わらないけど。そうしてそのご立派な高架線が貨物列車しか走らない特殊な線路であることを知るのもそう時間はかからなかった。