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金閣寺を燃やそう

以前、News Picksの動画で、確か予防医学研究者の石川善樹さんが「概念に萌える。“青春”という言葉を聞いただけで泣きそうになる」というような話をしていて、すごいわかる…と思った。

数年前から、私の頭の片隅には「美」という言葉(概念)が常駐していて、美と聞いただけで無条件に萌えてしまう。

人と話していたり本を読んでいて「美とは…」というくだりに出会うと「なになに、聞かせて!」ってなる。

美は、大きすぎて、あるいは小さすぎて、つかみどころがなさすぎて、手のひらにのった瞬間に消えてしまう雪の一片のような概念だ。どれだけ追い求めても手に入れた実感は一向にわかず、さみしくて泣きそうになる。

「美しい」と思ったモノやコト、人や言葉や風景はたくさんある。だけど「なぜ」なのかがわからない。この感動がどんな性質のものなのか、わからない。

わからないから、三島由紀夫を読んでみようと思った。


「金閣寺」 三島由紀夫 


私が人生で最初にぶつかった難問は、美ということだったと言っても過言ではない。
私には自分の未知のところに、すでに美というものが存在しているという考えに、不満と焦燥を覚えずにはいられなかった。


序盤のこの一節で、主人公と私が同じ問いを持っていることがわかってうれしくなり、「なになに、聞かせて!!」スイッチが入って、一気に読んだ。

私は「美」とは何か、という問いの”答え”を期待していたのかもしれない。それは結果、大間違いだった。

主人公の「美」への執着の深さ、切実さは、私たちにわかりやすい”答え”をくれるためなんかではない。なのに。ごめんなさい。

思わず謝ってしまうほど(誰に?)
美しく、泥臭く、圧倒的な物語だった。


疎外感が育てるもの


吃音(どもり)にハンデを感じ、人間関係をうまく築くことができず、孤独な精神状態にある主人公・溝口は、父から聞かされた「金閣」の美しさを、自分とは対照的なもの、「美」の象徴として憧れを抱く。金閣の住職見習いとして、日々、金閣を間近に眺めて過ごす。

憧れながらも、その普遍的な美しさに、距離の遠さに、溝口は突き放されているような疎外感を覚える。

世界からの疎外感
は、この小説の重要なテーマだと思う。

疎外感は、溝口の心に「悪」の芽を植えた。


第二次世界大戦がはじまり、京都が空襲で焼ける可能性が出てくると、主人公は期待に胸をふくらませる。


この世に私と金閣との共通の危難のあることが私をはげました。美と私とを結ぶ媒立(なかだち)が見つかったのだ。私を拒絶し、私を阻害しているように思われたものとの間に、橋が懸けられたと私は感じた。
私を焼き亡ぼす火は金閣をも焼き亡ぼすだろうという考えは、私をほとんど酔わせたのである。


しかし京都は空襲で焼かれることはなく、終戦を迎え、金閣は変わらずそこにある。

自分と金閣の関係は絶たれ、
自分と美が同じ世界に住んでいるという夢想は崩れたのだ
、と絶望する。

戦後、世界が刻々と変化する中で、その変化とは無関係に超然とした態度で「普遍性」を体現する金閣を見て、溝口の心の悪は、ますます大きくなる。

「いつかきっとお前を支配してやる。二度と私の邪魔をしに来ないように、いつかは必ずお前をわがものにしてやるぞ」


溝口の金閣への思いは、憧れと支配欲、憎しみが共存した奇妙なものに変わっていく。奇妙と書いたけれど、愛するものを支配したいという感情は突飛なものではないし、愛するものが手に入らないから壊したいという感情も、わからなくもない。


現実の生活での鬱屈は蓄積される一方で、ある日、寺に帰らずふらっと電車に乗って家出をした溝口の心に浮かんだ思念はこうだった。

「金閣を焼かなければならぬ」

金閣を焼けば、それは純粋な破壊、とりかえしのつかない破壊であり、人間の作った美の総量の目方を確実に減らすことになるのである。
金閣を焼けば、その教育的効果はいちじるしいものがあるだろう。そのおかげで人は、類推による不滅が何の意味も持たないことを学ぶからだ。ただ単に持続してきた、五百五十年のあいだ鏡湖池畔に立ちつづけてきたということが、何の保証にならぬことを学ぶからだ。われわれの生存がその上に乗っかっている自明の前提が、明日にも崩れるという不安を学ぶからだ。


美の中に秘めた普遍性。それが、溝口が金閣を焼いた動機のひとつであったと捉えることができる。

金閣のない世界をつくること。
それは、世界の意味を確実に変えるだろう
という確信が溝口にはあった。


世界を変えたければ…


金閣を焼こうと決心した溝口が、大学の友人・柏木と交わした会話が深く印象に残っている。

「僕は君に知らせたかったんだ。この世界を変貌させるのは認識だと。
いいかね、他のものは何一つ世界を変えないのだ。認識だけが、世界を不変のまま、そのままの状態で、変貌させるんだ。」

そう主張する柏木に、溝口は強く反論する。

「世界を変貌させるのは決して認識なんかじゃない」
と思わず私は、告白とすれすれの危険を冒しながら言い返した。
   「世界を変貌させるのは行為なんだ。それだけしかない」


個人的に一番エモーショナルだったシーンはここ。

他人に理解されにくく、理解されないことに誇りさえ持っていた溝口は、生きることに執着はなくなっていて、金閣を燃やしたら死ぬんだろうな…と思っていた。

でも、全然そんなことなかった。

幼い頃から大人になるまでずっとつきまとってきたこの疎外感に、どう対処したら良いのか。自分を取り巻く世界は、どうしたら変わるのか。変えたい。金閣(=普遍=美)に囚われることをやめて、自分の人生を生きたい。そんな叫びが聞こえる。

溝口は、「生きる」ということを自分のものにしたくて、金閣寺を燃やしたのだと思う。

「気安く共感してごめんなさい!」と思った。
私は概念の中で「美」と遊んでいるだけだった。自分と美との距離を思ったり、憎んだり、どうにかしようとしたことはなかったように思う。

孤独ではあったけれど、溝口の人生は金閣という物言わぬ建造物だけを見て過ごしていたわけではない。
初恋の女性からの拒絶。親友の死。将来に大きな期待を寄せる母親への嫌悪感。住職として、老師に尊敬の念を持てないこと。
周りの人間との相互作用で、溝口の人生観は屈折したものになっていった。

そうした環境の中で、金閣(美)という対象にとことん執着し対峙することで、溝口は自分自身と向き合い続け、「行為」で世界を変えようとした。


「認識」だけでは到達できないものがある。


世界を変えたいと思うならば、
私も手のひらの雪の結晶が消える前に、指先でつまんで
その感触や温度を感じるべきなのかもしれない。

金閣は無力じゃない。決して無力じゃない。しかしすべての無力の根源なんだ。



「美とは?」を知りたくて読み始めたけど、「生きる姿勢」について考えさせられてしまった。美は、知るとかわかるとかじゃないんだ。


上には書けなかったけど、全編を通して美に対する主人公の思考が恐ろしく精緻な描写で描かれていて、そちらにも萌えっぱなしだったので、「美とは」にフォーカスした記事も、ちかいうちに書きたいな〜。




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