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結局、生と死のエモさにはかなわないの

三島由紀夫「金閣寺」の感想で、肝心の「美」について全然書けなかったので第二弾です。

こんなこと言うのはアレだけど、私は「金閣寺」に確かに感動したのだけど、多分、意味がわかっていない部分もたくさんある。

美しい日本語と、美に対する観念に萌えっぱなしだったのは確かなのに、具体的になぜ萌えたのか、正直わからない。なぜだろうと考えて、整理しようとすると熱が出そうになる。

山口周さんのツイートに少し気が楽になる。

頭ではわからないけど心が動く状態。
それで十分じゃないかと思うことにして、「金閣寺」で描かれた「美」についての描写の中で、特に考えさせられた部分をピックアップします。「それは、どういうことなのか?」と考えてみて、すこしでも言語化できればいいな。

そしていつか誰かと「とりあえず私はここに感動したんだけど、あなたはどうだった?」という会話を(おそるおそる)したい。


永遠性と一回性


主人公・溝口は、金閣の美を「不変のもの」「現実世界から隔たって、ただそこに存在し続けるもの」「永遠のもの」と見ている。実際の金閣は建築物なので決して永遠ではないのだが、溝口の心の中には、物質ではない”心象の金閣”というものが根を張っており、その”心象の金閣”に振り回されている感じがある。

溝口が女性と距離を縮め肌を重ねようとする瞬間、目の前に幻の金閣が立ちあらわれる。

隈なく美に包まれながら、人生へ手を延ばすことがどうしてできよう。
一方の手の指で永遠に触れ、一方の手の指で人生に触れることは不可能である。
美の永遠的な存在が、真にわれわれの人生を阻み、生を毒するのはまさにこのときである。生がわれわれに垣間見せる瞬間的な美は、そうした毒の前にはひとたまりもない。

人生の美しさに触れようとするたびに、永遠の美が邪魔をする。圧倒的な美を前に、自分の人生の矮小さや生きることの虚しさを突きつけられ、萎えてしまう。


「生」の美しさ

溝口と対照的な思想を持っている人物として、大学の友人・柏木という人物が登場し、主人公と美について議論する場面が何度かある。

柏木は「永遠の美」や「不動の美」など、全く信じていない。

彼は、ある瞬間の、ある場所においてのみ、美は存在すると信じている。女性や花が一番美しい瞬間や、音楽のように流れていく美を好んでいる。

  それにしても音楽の美とは何とふしぎなものだ!吹奏者が成就するその短い美は、一定の時間を純粋な持続に変え、確実に繰り返されず、蜉蝣のような短命の生物をさながら、生命そのものの完全な抽象であり、創造である。音楽ほど生命に似たものはなく、同じ美でありながら、金閣ほど生命から遠く、生を侮蔑して見える美もなかった。


一回性の美しさと聞くと、シルヴィ・ギエムの「ボレロ」が思い浮かぶ。

モダンバレエの作品「ボレロ」はシンプルながら大胆な振り付けで、シルヴィ・ギエムの引退公演の動画は、はじめて見たときに15分間目が離せなかった。


50歳という、決して美しさのピークとはいえない年齢の、ギリギリまで高められた身体表現。一定のリズムを刻み続ける緊張感ある演奏。神聖さがありながら性の匂いもする。ギエムは男性にも女性にも見え、西洋の芸術なのに東洋的な厳かさもある。

こういう美に出会うと、永遠性と一回性は相反するものではなく、到達するところは同じなのだとつくづく思う。瞬間と永遠、特殊と普遍をどちらもはらんでいる。相反するものが同居しているということは、この世界には当たり前にたくさんあり、美しいと感じるものが多い。気がする。

それは生と死にもあてはまる。


「死」は美しいか

「金閣寺」での中で徐々に主人公は死や悪、破滅などの暗い面について考える。人は美を思いつめると、暗黒の方に向かうものだ、とも語っている。

なぜ露出した腸が凄惨なのであろう。なぜ人間の内側を見て、竦然として、目を覆ったりしなければならないのだろう。なぜ血の流出が、人に衝撃を与えるのだろう。なぜ人間の内臓が醜いのだろう。・・・それはつやつやした若々しい皮膚の美しさと、全く同質のものではないか。
内側と外側、たとえば人間を薔薇の花のように内も外もないものとして眺めること、この考えがどうして非人間的に見えてくるのであろうか?


露出した腸や流血は「死」につながる悲惨なこと。悲惨なことを「美しい」などと思うのは不謹慎だ。私たちは、それ自体が美しいかどうかよりも先に、腸や血を倫理的な目で見てしまう。

もちろん倫理は必要だ。現実に生きている誰かの死を積極的に願うことはないが、フィクション小説や映画で出会う「死」につながる悲惨な場面に(少なくとも私は)美しさを感じ、打ちのめされてしまうことがある。私はホラー映画「悪魔のいけにえ」が映画の中で一番好きなのだけど、殺人鬼(レザーフェイス)が最後のターゲットをとり逃し、朝焼けの中で踊るようにチェーンソーを振り回すラストシーンは、とてもとても美しいと思う。

(フィクションで描かれる)死はなぜエモいのか。

それはきっと、命が一回生のものであることとも密接に結びついている。その命がどう生きて、どう終わったのかというのはそれだけで壮大な物語になる。描かれた場面、描かれなかった場面を想像し、感情のパーツがガチャガチャと組み上げられていき、なんだか複雑怪奇な建築物ができあがる。それを言葉にしようとしても、どうにも形容しがたく、俯瞰してみても結局、美しいなあ、という言葉しか出てこない。その作業は頭の中で瞬間的に行われている。様々なパーツは一瞬で消えてしまう。


それでも、感情のパーツの端々には、命がなくなることの儚さ、悲しさ、恐怖や暗黒が確かにちらちらときらめいていた。



去年、ある大学で学生と「美しさとは何か」というテーマでディスカッションを行った時、一人の学生がこう言った。

「空の色や自然をきれいだと感じる人が多いのは、美しさの解像度が高いからだと思う」

美しさの解像度…どういうこと?と更なる疑問が沸きながらも、何だかとても腑に落ちた。

私が「悪魔のいけにえ」のラストシーンに感じる美しさは、オレンジがかったテキサスの乾いた景色、チェーンソーの音、叫び声の余韻、ビデオテープに入った粗いノイズ、その他諸々で構成されており、その組み合わせは私の中でしか構成されず、ひとつひとつの解像度はとても低く、自分の中からもすっと消えてしまうので、言葉でつかみきることができない。

隣の人が、同じものを見て、同じパーツで「美しい」という感情を組み上げることは不可能だと思う。(もちろん、趣味の合う友人と共感することはできるが、その感情の成分が100%同じということは多分ない)

だからといって、その解像度の低さを排除したり、無下に扱うことはしたくないなと思った。

想像力を、物語の力を、もう一つの世界を感じることを、子どもの時に知ったそのままに守っていくことはとても難しい。
そのことは気を付けていなければすぐに、本当にすぐに忘れてしまうような微妙なことだ。そのことには名前がないから。
たくさんの書物の中から、それについて書いてあるものを私は探す。その片鱗が感じられるものの見方、方向的に似通っているような体系について知り、刻々と薄れていくそれを明確にしようとする。だから知っている。あまりによく整理されていたり、魅力的だったり、慰めてくれそうだったりするものには惹かれ、そっちに引きずられそうになるものだ。段々それが単に言葉の言い換えに過ぎないような気がしてくる。段々、それが自分の知りたいことををよりはっきりあらわしたものに見えてくる。
でも、それは違う。どんなにそれが楽でも、素敵でも、どこかで違うとわかっているのなら、絶対にそっちに引きずられてはいけない。
ペイガニズムも、魔術も、神秘主義も、宗教も、ニューエイジも、心理学も、駄目。
想像力・創造力をただそのままに保っておかなくては。
その力を、何かの体系に合うように矯めてはいけない。多分それは取り返しがつかないことだから。(二階堂奥歯/八本足の蝶)


そう、取り返しがつかない。切り捨てられた感情は二度と戻ってこない。タイトルであえて使った「エモい」という言葉なんか、本当に感動した時には絶対に使ってはダメだ。

私の中にしか生まれない解像度の低さをもっと愛してあげたい。

「金閣寺」はその解像度の高さで、私の中のこぼれやすい1ピクセルの感情を、優しくすくいとってくれたように思う。


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