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「華氏451度」のやさしい炎

「本ともっとポップな付き合い方ができないかな〜」と考えている最中に読みたくなり、レイ・ブラッドベリの「華氏451度」を買ってきた。


この物語に描かれているのは、ざっくり言うと
本は人間に“思考”をさせる(=哲学をさせる)
→哲学は人間を幸福にしないし、管理する側にとって都合が悪い
→誰も本を読まないように、現存する本は片っ端から燃やす。

という未来。


本を燃やす“昇火士”と呼ばれる仕事をしている主人公。
勤め先の上司が、物語序盤で主人公への説教を通して、この世界について読者に説明してくれる。


大味なプディング

隊長によると、ラジオやテレビなどのメディアの登場でコンテンツの質は変容し「大衆の心をつかめばつかむほど、中身は単純化された」という。


この隊長の怒涛のまくしたてが小説通して何回か出てくるのだけど、毎回めちゃくちゃテンポ良く耳の痛い話を痛快に繰り出してきてワアアってなるから、そこだけでも読んでほしい。下記はその一部です。


「映画やラジオ、雑誌、本は、練り粉で作ったプディングみたいな大味なレベルにまで落ちた」
「19世紀の人間を考えてみろ。馬や犬や馬車、みんなスローモーションだ。20世紀にはいると、フィルムの速度が速くなる。本は短くなる。圧縮される。ダイジェスト、タブロイド。いっさいがっさいがギャグやあっというオチに縮められてしまう」
「『ハムレット』について世間で知られていることといえば、《古典を完全読破して時代に追いつこう》と謳った本にある1ページのダイジェストがせいぜいだ。」

最後の文とか、まさに今、現在のことかな?って思った。 


本を燃やす法律についてはこう言っている。

「これはお上のお仕着せじゃない。声明の発表もない、宣言もない、検閲もない、最初から何もないんだ。引き金を引いたのはテクノロジーと大衆搾取と少数派からのプレッシャーだ。」

本を不要なものとみなす社会は、独裁者によって出来上がったわけではない。民衆がなんとなくそういう社会を望んでいる空気感があったから、そういう方向に行ったという。oh…


メディアそのものに善悪も優劣もない


web、TV、ラジオ、紙、店舗、など。私たちはどのメディアからも恩恵を受けている。いつの時代もニューメディアとオールドメディアは比較されてきた(テレビばかり見るとバカになる、本を読め。的な)。私はデザイナーという仕事の上では、各媒体のメリット・デメリット、向き不向きを理解し、生活者との接点に即した方法で情報を届ける必要があると肝に銘じている。メディア自体について悪か善か、好きか・嫌いかの二元論で考えることは不毛だと思う。(もちろんコンテンツの内容の良し悪しはまた別だ)


明らかに「華氏451度」は「書物愛」に偏り過ぎていて、ニューメディアの登場を悲観しているだけの小説なのかと思っていた。読んでいる途中まで。この小説が伝えたいことはぜんぜん別のことなのだと気づくのは読み終わってからだった。


本だけ読んでるわけじゃないな・・?


私もまた書物びいきの人だけれど、ほぼ毎日、夕飯から就寝までの時間帯にYoutubeやNetflixを観る。たまにPodcastでネットラジオを聴く。


「華氏451度」の中で描かれている世界は、「本好きとしてはいやだなあ」という肌感覚はあるものの、現在の生活スタイルに少し近いなと思う。

 
だから「民衆がなんとなくそういうメディアを望んでいる空気感」というのはすごくわかる。YouTubeはいつの間にか暮らしにこんなにも入り込んだ。


確かにネットの普及で本を読む時間は減った。だけどそれ自体はわたしたちにとって「悪」なのか?本だけが、知性を養うツールなのか?そもそも「知性」とは何か?今の時代にどんな知性が必要なのか?(こうやって、そんな感じのタイトルの教養本を手にとってしまうのか・・?)


ほら、メディア自体を悪か善かで考えると完全に迷子になる。
「華氏451度」が伝えたいことはそこじゃない。


ほんとうに大切なものは何か?


小説の中のディストピアと現実に共通項はあるけれど、まったく違う部分もある。


「華氏451度」の中では、哲学や詩を読むこと、何かに疑問を持つこと、自然を愛することが悪とされる未来が描かれている。今の時代にこれらのことはむしろ大切だという風潮で、たぶん“人間性”と呼ばれるものだ。


ブラッドベリが伝えたかった大切なものは「本」ではなく、本を読むことでわたしたちの中に芽生えるもの、哲学や詩を読むこと、何かに疑問を持つこと、自然を愛することをやめてはいけないということだ。


幸い現代は、合理性を追求した新しいテックやメディアが日々誕生しているが、それだけを良しとして偏向に突き進むような世界にはなっていない。


映画「ブレードランナー2049」で、レプリカント(アンドロイド)の部屋に詩集が置いてあったことを思い出す。

新しいものの登場で、古いものは淘汰される。だけど、古いものに含まれている、失くしてはいけないものは、誰かがどこかで守ってきた。


だからこの世界は100%「華氏451度」にならないで済んでいる。ギリギリのところで、かもしれないけれど。


「きみがさがしておるのは本などではない!さがしものは、手にはいるところから手にいれればよいのだ。古いレコード、古い映画、古い友人。自然のなかに求めてもよい。みずからのなかに求めてもよい。書物は、われわれが忘れるのでないかと危惧する大量のものを蓄えておく容器のひとつのかたちにすぎん。書物には魔術的なところなど微塵もない。書物がいかに世界の断片を継ぎあわせて一着の衣服に仕立てあげたか、そこにこそ魔術は存在する。」


「華氏451度」は決して書物愛を語っているだけの小説ではなく、どんなに目まぐるしく時代や社会やメディアが変わっても、失くしてはいけないものは何か、考え、見つけて、守りなさい、という人間性に満ちたメッセージがある。


小説の中の本を燃やす炎は、現実がそうならないように、私たちに気づかせてくれるやさしい熱さだ。


ブラッドベリ、本好きの偏屈だと思ってごめんね。

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