【YOGA】第1章1-2
アタ ヨーガ アヌシャーサナン
さあ、これからYOGAを説明しましょう。
「アタッ」という音は、
世界が形を現したときに起こった音。
その音は、祝福・吉兆を意味し、
強い祈りと願いがこもっています。
"世界が形を現したとき=自分の内なる魂の目醒めのとき"
私はなんだかそんなふうに感じた。
誰でもどの瞬間からもいつだって覚醒めることはできる。
ヨーガスートラを「アタッ」で始めたのは
パタンジャリ先生のそんな願いがあったからなのかもしれない。
ヨーガハ チッタ ヴルッティ ニローダハ
ヨーガとは考えの動きを静かに収めることです。
人が望む究極の自由は知るべきことを知ったときに叶うという。
"知るべきことを知ったとき" とは、
身につけた正しい知識を実体験を通して学んだときに
初めて「腑に落ちる」という体感を得ると私は思っていて、
そのためにもまずは「知る」ということをしなくてはならない。
無知=概念にない状態。
概念にない状態とは存在すらしない状態。
だからもし目の前に気付きのチャンスが現れたとしても
なかったも同然で通り過ぎてしまうと思うから。
パタンジャリ先生のヴェーダにはこう書かれているそう。
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人間は自由になるためにこの世界にきた。
自由になる術は、自分の真実を知ることにある。
苦悩しているという考えは、実体のないものに過ぎない。
本当に実態があるのは、考えを観る存在であり、考えの本質である自分自身である。
自分自身とは、自由で、幸せの意味である。
YOGAとは、自分の本当を知り、一切の苦悩から自由な本来の自分自身に還るための道であり、真実に至る生き方なのだ。
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"自分自身とは、自由で幸せな意味"
自分を苦しめているのは自分の考え。
その考えも本当は実在していない。
だからこそ自分を知る。
自分の真実を知る。
自分の苦悩を取り除く術を知る。
何事も知ることから前に進むことができる。
私はそう思う。
「YOGAのゴールはサマーディ(内なる静けさ)」
心は本当の自分じゃない。
心はいくつものヴルッティ(考えの動き)で作られている。
1.サットヴァ(純質)
調和し、澄んだ落ち着きある考え。
慈悲深く、他人を理解しようとする質。見通しと理解のある
2.ラジャス(動質、激質)
活動的で野心的な心。
嬉しみ悲しみ怒りや落ち込みなど激しく揺れ動く質。
自分のエゴの状態。
3.タマス(鈍質)
不活発、惰性、無気力という質の考え。
自分を高めるYOGAとは遠い考え。
眠った状態。自分がココに居ない状態。
ラジャスもタマスも必要で
誰の心にもこの3つの質は備わっている。
しかし本当の自分とは、"意識の源"の存在。
苦悩や悩みを作り出している心を観ることができる存在。
だから、チッタ ヴルッティ ニローダ
=心の動きをケアすることができるということ。
自分が意識の源であることをまずは知らなければならない。
チッタ ヴルッティ ニローダ出来るのも自分しかいないのだと知らなければならない。
そして自分だけのチッタ ヴルッティ ニローダの方法も自分自身が知ってあげなければならない。
無知は言い訳にならない。
知る努力を自分のためにする。
ヨーガハ チッタ ヴルッティ ニローダハ
ヨーガとは考えの動きを静かに収めることです。
何もしなければ考えは自動的にどこまでも流れていく。
刺激があれば刺激に引き寄せられる。
するとラジャスやタマスな状態ばかりとなってしまう。
サットヴァな状態に自分自身を導くためにも
自分を知る意識を常に働かせておくこと。
チッタ(心が)ニローダ(収められた)な状態にしておくこと。
自分の考えの流れを今いるべき所、やるべきことに集中することで、
怒りや嫉妬、後悔や悲しみという激しい感情や、
過去や未来という実体のないものに自分を奪われることがなくなる。
誰もが自分の心を道具として使えるようになる。
心の動きを収めたとき、穏やかな心で自分を知り、
自由に至ることで「サマーディ)で」はもたらされる。
YOGAとはその心を収める練習なのだ。
とこの章を読んで私はそう感じた。