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約10年ぶりの希死念慮。自分の生き方を見直すきっかけになった。

希死念慮に襲われていた。
無気力ですべてがどうでもいい。

食べることが大好きだが、食事にも興味がなく、1週間まともに食べなかった。
口にできたのはチョコレートやクッキーを少しづつ。

空腹でお腹が鳴っても「食べたい」という気持ちにならない。

1日15時間くらい寝ていて、起きている時間はゲームをしていた。もともとゲームは大好きだったので、死にたい気持ちから逃れる手段としてはよかった。

ゲームをしている時は辛いことを思い出さなくて済むし、今に集中できる。

ゲーム依存症なのかもしれないけど、そんなこともどうでもよかった。死んでしまうよりましだ。

しかし、眠たくなるまでベッドで横になっている間、どうしても死にたい気持ちと向き合うことになる。

約10年前、いじめで高校を自主退学したあと、高認をとって専門学校へ行った。

しかし、教室や学生たちがいる環境に身を置くと、高校時代のいじめを思い出す。

フラッシュバックに襲われ、まともに授業を受けられる精神状態ではなかった。

専門学校でも嫌がらせのようなものを受けていた。

後ろの人がボールペンかなんかで背中を押したり、私の机に知らない人の教科書が詰められていたりしていた。

今思えば嫌がらせなのか、ただの偶然が重なっただけなのかもしれない。

しかし当時の私はすぐいじめや嫌がらせと繋げてしまうほど、心が限界だった。

結局1か月で辞めてしまい、親のお金を無駄にしてしまった。

そのことが強烈なショックとなり、希死念慮がやってきた。

「今すぐこの気持ちを何とかしないと」という衝動に襲われる。いてもたってもいられず、カッターで手首を切った。

だがミミズ腫れのような傷しかつけられないほど、手首を切ることが恐怖だった。やり直そうとするが、徐々に体の力が入らなくなり、吐き気にも襲われる。

ついにはカッターを持っただけで吐き気がするように。「自分は死ぬどころかまともな傷をつけることもできないのだ」と悟った。

あれから約10年がたった。

最近の希死念慮は、今すぐに死にたいという衝動的な気持ちではなく、もういつ死んでもいいやという諦めのような感覚だ。

食事をまともに取らないことで死に近づこうとしていたのかもしれない。

体に傷をつけたり痛みを使って死ねないなら、餓死してしまえばいいや。とどこかで思っていた。

今回の場合は、死にたい・辛い・これ以上耐えられないといった言葉を言わず、1週間ほとんど黙って回復するのを待っていた。

家族は以前より理解があるし、相談することもできたが、言ったところで適切なアドバイスができるほど私の障害について知識がない。

親は70代。難しいことを理解できないため、話したところで混乱させることは想像できた。

私の様子がおかしいことは知っていて、私が寝ている間に部屋を見に来ていたようだ。

親が高齢になっていくなか、自分は何も変わっていないようで、切なくて、「私がこんなじゃなければ、親は今よりも楽しい思い出が多かったのでは」と、申し訳なく思う。

ただ昔と違うのは、メンタルが落ち込んでも必ず回復する経験を積んでいることだ。

その時はこれが永遠に続くように感じるし、回復したとしてもまた落ち込むことを思うと、絶望的な気持ちになる。

終わらないメンタルの波を感じたくない。しかし頭の片隅で回復することをイメージできるようになった。

私は元気な時にメンタル関連の本やYouTubeを見まくっていて、少しは知識がついている。

そして、自分がどんな行動をしたらメンタルが回復するのか、長年の経験でなんとなくのパターンを知っている。

私の場合は、とにかく好きなことをする。

ゲーム、コーヒーを飲む、眠る、チョコレートやクッキーを食べる、メイクをする、ネイルをする、好きなユーチューバーさんをひたすら見る、お香をたく、など。

好きなことだけしていると、少しずつ冷静に考えられるようになる。

ふとした時に「あ、これはいつものパターンだ。こんな時は自分のやりたいことをして過ごせば回復するんだった」と気づけるようになる。

いつも同じ壁を目の前に、同じ対応をとってしまう自分を変えなければ。

希死念慮に襲われるということは、私の生き方・考え方・言動がどこかで間違っているはずだ。

間違っているところもあるはずだし、「あなたには向いていない」と教えてくれているような気がする。

具体的にどこを見直すべきなのか、今はよくわからない。でも新しい気づきはあった。

私に就職は向いていないのかもしれない。ということだ。

就労移行事業所に通っているが、「自分は就職できないかも」と薄々感じている。

なぜか。大きな要因は男性恐怖症と勤怠が荒れることだ。就職するとなると、男性との関わりを100%避けることはできない。

合理的配慮として認められないのはわかっている。

自分の精神をすり減らし、フラッシュバックや死にたい気持ちを生み出してまで、トラウマに立ち向かう必要性はあるのか。

私の場合、男性と同じ空間に居続けることや、近くにいること、話をすることに強いストレスを感じる。

たとえ就職できたとしても、働き続けること自体無理だ。休職を繰り返し、会社にいづらくなるのは目に見えている。

そこまでして、就職にこだわる必要はないのでは?と思うようになった。

私は「仕事をしないと生きる資格がない」という強迫観念と戦っている。

今自分が働いていない状態がとてもつらくて、自己否定しながら生きていた。

私にはフリーランスの道がある。

恐怖症やトラウマを抱えているため、フリーランスになったとしても選択肢はかなり少なくなる。

しかし少しでも働ける可能性があるなら、今までの固定観念やこだわりなど、捨てても構わない。

自分なりに考えてみたのだが、「仕事でやりたくないこと」を見つけようとしている。

これをハッキリさせれば、自分らしい働き方に出会えるかもしれないと思ったからだ。

今わかっているのは

・人と関わる(テキストコミュニケーションならOK)
・納期の約束
・働く時間帯を固定される
・SNS
・休みたい時に休めないこと

適職診断とかを利用して自己分析を続ければ、かなり絞り込めると思う。


私の記事を読んでくださった方、スキ、フォローしてくださった方へ。

最後まで読んでくれて、本当にありがとうございます。

話があちこち飛んでいて読みにくかったと思います。今はそこを気にしてばかりだと疲れてしまうし、気持ちの表現がしにくいため、しばらくこんなもので許してくださいませm(__)m

コメントオフは、私の豆腐メンタルを支えるためです。
「スキ」「フォロー」で、皆さんの反応をありがたく受け取っています。

こんな私ですが、よければ時々見に来てやってくださいませ。
いつもありがとうございます。


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夜久一禾(やくいちか):自分らしく働く
「生きづらさと自分らしさの両立」が目標です。 デザイン・文章・プログラミングを勉強中で、クリエイターとして活動していきたいです。 noteでつながりを感じながら、皆さんの応援を「私らしいクリエイター活動」に使わせていただきます。 よろしければ応援をお願いいたしますm(_ _)m