[書評]市川沙央『ハンチバック』
経験を言葉にすること、それはその細部において他人には計り知れないほどの重みを持つ。多かれ少なかれ、それは文章を理解しながら進んでいかなければならない「読む」ことの行為者を圧迫する。ときに「訴求力」と呼ばれるその圧力に、この作品に関しては、作者も拉がれているのだ。
難病を抱える40代女性の視点をとって描かれる今作は、現実世界と、ネットにおける描写が混在する。現実において描かれる細部から、彼女が背負うものが否応なく立ちあがる。腹のタオルケット、人工呼吸器、痰の吸引カテーテル、気管カニューレ、S字に湾曲した背骨、という拡張的な身体はその一環だが、本作の素晴らしいところは、障害者と健常者、という在り来たりなモティーフからさらに深部まで切り込むところだ。そして、暗澹たる語りではなく、どこか達観し語り手自らを客観視してときに自嘲するような、語りの軽妙さも捨てがたい。
亀裂の試みは、健常-障害という二項対立にしばしば議論されるような健常の優位性を無化する試みでもある。健常な人間が所与のものとして受け取ること、その「所与」を市川の描写は穿つ。例えば時間への意識。非常に時間の経過を呑気に捉える物語を、私たちは多く摂取しすぎているのかもしれない。「老い」は多くの人々にとって、現在形として感得しえない事象だろう。その「老い」の感覚が実は、健常者の特権であることにも、語りの手が触れる。
「普通」と言って憚らない人間からは、こうした思考は萌芽する可能性さえない。「生きれば生きるほど」「いびつに壊れていく」身体は、読者の想像の埒外でさえあるだろう。「健常者」の生は語り手から見ると相対的に固定されたもので、それゆえに、「博物館や図書館や、保存された歴史的建造物」的でさえある。ゆっくりとした時間の中でほとんど変化しない身体に宿る魂が、「古びてゆく」ことに価値を見いだしていることに気がつく。
作中に登場する、重い障害をもつ女性が「普通」と名指す行為。その行為自体が撃つのは、「普通」を「普通」と言って憚らない無数の人間たちの愚かな口であることは、言うべくもない。寝たきりの語り手が、ヘルパーの目線を通して外の富士山の景色を想像するところは、日常に潜む分断的残酷さを感じさせずにはおかない。そうした仕掛けが本書には多数ある。
この作品を貫くひとつのモティーフは「成就」することだ。語り手釈華の書き綴るハプバ記事も、大学に通いながら水商売を行う「釈花」の想像界も、障害とは無縁のところで成立している、空疎な肉体遊戯に過ぎなくも思える。しかし、その空疎さの中にこそ語り手は「涅槃」を視ずにはいられない。中絶してみたい、という歪な、声にも出せない欲望は、この涅槃の中に托される。泥の上に咲く蓮の花。そのえもいわれぬ輝きに、目も眩んで動けなくなる。
切実に生きるということ、壊れずに生きるということ、わたしたちの周りを渦巻く「所与」の分断に、目を凝らすことをこそ、否応なくつきつけてくるテクストの力を見た。
追記:本日(2023/7/19)、第169回芥川賞に、本作が選出されました。市川沙央さん、おめでとうございます!