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書評

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読書記録、しっかりした書評からメモ程度まで形式は統一していません。ネタバレ多。
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#読書記録

読むことの深淵と、その周縁―鈴木哲也『学術書を読む』

 学ぶという行為、それは他者からの知を享け入れ、分かりにくいもの(=自己)と対峙しながら、同様に分かりにくい世界へ向かって知を照射する試みである。そのさなかでわれわれは専門という言葉で飾られた偏った狭い門をくぐり、ぐんぐんと深い穴へ這入ってしまう。  鈴木哲也『学術書を読む』においては、そもそも本を読むと言う行為について「考える」ことにはじまり、専門外の学びを得る本を「選ぶ」技術を、著者の読書から具体的に考察し、さいごに「読む」ことの意味とテクニカルな側面を示唆している。

[書評]市川沙央『ハンチバック』

 経験を言葉にすること、それはその細部において他人には計り知れないほどの重みを持つ。多かれ少なかれ、それは文章を理解しながら進んでいかなければならない「読む」ことの行為者を圧迫する。ときに「訴求力」と呼ばれるその圧力に、この作品に関しては、作者も拉がれているのだ。    難病を抱える40代女性の視点をとって描かれる今作は、現実世界と、ネットにおける描写が混在する。現実において描かれる細部から、彼女が背負うものが否応なく立ちあがる。腹のタオルケット、人工呼吸器、痰の吸引カテー

[書評]「本物の読書家」乗代雄介

 不思議な手触りだ。小説と、文学批評が交響している。文学批評はまったく邪魔になることなく、むしろ小説の読みを駆動するのだ。川端康成の手紙を持っているという大叔父に付き添う羽目になった読書家の「わたし」が在来線で居合わせた謎の男。車内での読書話はやがて文学史を揺るがす大きな謎へと肉薄してゆく…  本書は、前に述べた通り、読書家と作家、つまり書き手と読み手という機構を題材とした文学論の色彩をも帯びている。太宰治、川端康成はもちろん、柄谷行人からナボコフ、サリンジャーまで、引用を

[読録] 大江健三郎「セヴンティーン」

 十七歳の若い内面と、そこから見つめられる世界についてこの作品は徹頭徹尾描いている。「独りぼっちで不安で、柔らかい甲羅に脱ぎかえたばかりの蟹のように傷つきやすく、無力」な十七歳という時間と存在が語るのは、《右》という強い言葉によっての定型思考方式に見出される、行き場のない自意識の救済である。自分に無関心な父母と兄弟、自宅の物置小屋で自瀆する少年は、学校でも当然のように浮いている。日々が孤独と不安を育む。  そこに《右》の演説のサクラをするという仕事を受けるわけだが、《右》の

[書評]ローラン・ビネ『HHhH プラハ、1942年』

 書いている人の存在が感じられる文章が好きだ。私たちを読み手として認め、ときに立ちどまり懊悩しながら書く人のことを想うと、こちらも読者として誠実に付き合わなければならないことを思い出せる。端的に言えば、これはそういう小説だ。  ナチス・ドイツで一番危険な男、《金髪の野獣》ハイドリヒを襲撃する〈類人猿作戦〉へと集約するために、歴史的背景を丹念に追い、関係する一人一人の動きを追い、物語を作る。襲撃されるに至るハイドリヒの出世の生涯と性向、襲撃するパラシュート部隊のガブチークとク

[読録]九段理江「Schoolgirl」

 読んだのは『文學界』2021.12所収のもの。環境問題に「目覚め」た我が子と、小説を読み耽った青春時代を持つ母親。母娘の間の分断が、思わぬ補助線によって溶かされ―。所謂Z世代の偏重姿勢がやや誇張的だが、「女生徒」がちょうど母娘の中間に位置すると考える構造がおもしろい。母と娘という関係を自己と他者に遡及させるところが良かった。  この作品は芥川賞候補作でもあり、その選評が一部ネットでも見られるようになっている。そこでこの作品を高く評価しているのは、オジサン三人で、小川洋子、

[読録]有島武郎「小さき者へ」

子を想う父の肖像が浮かび上がる、「小さき者へ」という作品は、妻を失った夫として、子を持つ父としての覚悟が綴られる。それは子が成人してから読む想定で描かれた夜想である。  物心つかない子へ語るということを考える。時間が沸き立ち、考えるでなく一時的経験の連続の中で生きる子という存在に対しては、親はたじろぎながら、傷つきながら愛することしか能わずという感じである。というか、それ故にこうした迂路を通りながら父の愛は伝達されなければならなかったのだ。 他人と暮らす、ということの意味

[読録]『しんせかい』山下澄人

小説とは、作家による現実の経験の再現である、という当たり前に見える事実。けれどもこれこそが、私たちが小説を読む理由の本質を穿っている。私たちは他人の人生、経験へと入り込み、肉体と意識を借りる。  『しんせかい』。ここで私たちが目撃することになるのは、忘れながら、考えながら言葉を紡ぎ出す語り手のリズムだ。喋っているひとの声の間、思考の感覚が改行に現れ、飛び跳ねるように、戯曲のように言葉が紡がれていく。そして、それはわたしたちに、私たちが考えるリズムと似ている、というリアルさを意