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読むことの深淵と、その周縁―鈴木哲也『学術書を読む』

 学ぶという行為、それは他者からの知を享け入れ、分かりにくいもの(=自己)と対峙しながら、同様に分かりにくい世界へ向かって知を照射する試みである。そのさなかでわれわれは専門という言葉で飾られた偏った狭い門をくぐり、ぐんぐんと深い穴へ這入ってしまう。

 鈴木哲也『学術書を読む』においては、そもそも本を読むと言う行為について「考える」ことにはじまり、専門外の学びを得る本を「選ぶ」技術を、著者の読書から具体的に考察し、さいごに「読む」ことの意味とテクニカルな側面を示唆している。

 興味深いのは、一概して専門外の学びというのではなく、「遠い専門外の学び」と「近い専門外の学び」を区別し、それぞれの必要性に触れている点である。本を選ぶ、という行為を具体的に、それでいて読者視点に立ってここまで考える、ということはなかなかなくて新鮮だ。

 全体としては、大学で教授たちが口を酸っぱくして言い続けることが、やさしく書いてあるという印象で、自分にとって特段新奇なものではなかった。けれど、それが逆に言い本だ、と思わせる点だ。むしろ、うんうん、そうだよな、とすんなりと納得できるところに、自らの身に沁みている教育の歴史を感じる。著者も触れているように、高校生に読ませたい、もっと言えば、高校生だったころの自分に読ませたい一冊である。

 論の流れとは関係のないところで、時々語られる著者の意見も、首肯ものが多かった。たとえば、以下は、仲間内のものではなく、外のものを読め、という文脈でやや唐突に登場する著者の意見だ。

 このことに関わって、もう一つ留意しておくと良いのは、著者が自らの認識論・方法論に自信を持ちつつも、その限界、あるいは別の立場からの認識や方法があり得るということを自覚している本は、信頼に足るものが多いということです。

鈴木哲也『学術書を読む』(京都大学出版会、63頁)

とか、そうだなぁと思う。パッと浮かんだのは千葉雅也や東浩紀、等の書き手は、批判を想定して書いている感じを与える。こう書くとこう思われるかもしれないが、これにはれっきとした理由がある。とか、自らの理論を徹底的に説明したのち、その限界も同時に提示する、など、明晰かつ、多角的に自らの文章を知で蔽っている。

 きっとそれは、知、それ自体の幅広さが可能にする芸当でもあるだろう。この本は幅広く、けれども深く読んでゆく、という読書家がめざす基本であり深淵な理想へ、わたしたちを拓く。