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[書評]ローラン・ビネ『HHhH プラハ、1942年』

 書いている人の存在が感じられる文章が好きだ。私たちを読み手として認め、ときに立ちどまり懊悩しながら書く人のことを想うと、こちらも読者として誠実に付き合わなければならないことを思い出せる。端的に言えば、これはそういう小説だ。

 ナチス・ドイツで一番危険な男、《金髪の野獣》ハイドリヒを襲撃する〈類人猿作戦〉へと集約するために、歴史的背景を丹念に追い、関係する一人一人の動きを追い、物語を作る。襲撃されるに至るハイドリヒの出世の生涯と性向、襲撃するパラシュート部隊のガブチークとクビシュ、そしてチェコの人々、まるで糸を一本一本縒り合わせるごとき緻密な調査が語りを統制している。それらの糸が集約する1942年、プラハでの出来事が、語りによってこれ以上ないほど立体的に投影されることは言うまでもない。そこで語られる歴史は重い鉄鎖のような、避けがたいつながりをもって感じられる。

 この物語の一つの特質として面白いのは、断章の形式をとり、ひとつ〈歴史〉を語ったとおもえば著者が登場し、すぐさま〈歴史〉はこうではなかったかもしれない、という言い訳を始めるところだ。〈歴史〉のなかのハイドリヒやヒトラー、30-40年代の人物の描写の直後に、2000年代のビネが登場し、自身の美しいガールフレンドや、〈歴史〉を語ることにのめり込んでその彼女に愛想を尽かされかけたりする。読者は二つの時間を移動しながら、〈歴史〉を読むのではなく、〈歴史〉を書く著者の葛藤や苦悩を含めて〈歴史〉を観測するのである。少し具体的に見てみたい。

 ガブチークが襲撃部隊に志願するために、最後に故郷を訪れるシーンを描いた後の記述はこうだ。

 この場面も、その前の場面も、いかにもそれらしいが、まったくのフィクションだ。ずっと前に死んでしまって、もう自己弁護もできない人を操り人形のように動かすことほど破廉恥なことがあるだろうか!彼がもっぱら珈琲しか飲まない男であるかもしれないのにお茶を飲ませたり、コート一着しか着ていなかったかもしれないのに二着重ね着させたり、汽車に乗ったかもしれないのにバスに乗せたり、朝ではなく、夜に発つ決心をさせたりとか。僕は恥ずかしい。

(124)

語ることのできないものを、善意とはいえ代弁してしまうということの傲岸さ。それはもはや、語れば嘘になるということを折り込み済みでもさらに語ることが難しい、いわば必ず負ける闘いのようなものだ。ビネはそれでも、〈歴史〉を作り上げねばならない。

 これは初手から負けの決まった戦いだ。僕はこの物語をかくあるべきものとして語ることができない。おびただしい登場人物、出来事、日付、巨木の枝葉のように際限なくこんがらがった因果関係、そして、これらの人々、実際に存在した生身の人々、その生活、その行動、その考えのほんの一部を僕はかすめるだけ……。

(210)

〈歴史〉だけでなく、書き語る者の定めなる絶望がここには表れている。目の前に生起し刻々と変化してゆく世界のバイオリズムを、私たちはそのまま書き写すことができない。そこに言語の不能があり、魅力がある。書きつくせない、掠めるだけ、という実感が、わたしたちに書かせ、そして読ませるのだ。


 僕はたえず、あの〈歴史〉の壁にぶちあたる。その壁には、見るからに手ごわそうな因果律という名の蔦が這いまわり、けっして留まることなく、さらに高く、さらに剣呑に生い茂っている。

(同前)


〈歴史〉の因果、それを書きつけようとすることは、単に時間の前後関係を書けばよい、というものではもちろんない。そこに関わった人々、社会の在り方、イデオロギー的通念、その時代の空気を、吸わなければ書けないのだ。

 このようにビネは〈歴史〉を語るということの危険性に関して非常に気を揉んでいるというほかない。それが人類文明最大の愚行であるナチスを語るとなればなおさらのことであり、〈歴史〉は多面的に検証されてしかるべき客観的対象になるほかない。その因果律の中で著者は迷い、佇立し、それでも書き、戦ったのである。

 その戦いの軌跡として、ここで注目したいのは物語のその細部だ。著者はよく立ちどまるのだが、それにしても細部にこだわる。ナチスの制服、ハイドリヒが乗っていた車、そうした部分の末端に偏執症のごとく筆先を向けずにおかない。


下書きの段階では「青の制服にきっちりと身を包んでいる」と僕は書いていた。どういうわけだか、青い色に見えたから。たしかにゲーリングは、写真では明るい青の制服を着ていることが多い。でもその日、青だったかどうかはわからない。白だったかもしれないのだ。たとえば。
 それにまた、この種の細かいことが、この歴史の段階でなお意味を持つのかどうかも、僕にはわからない。

(156)

この犬が〈類人猿作戦〉で重要な働きをすることはおそらくないとは思うけれど、重要なディテールを見過ごす危険をおかしてもなお、無意味なディテールを記録することにこだわりたい。

(253)

いうまでもなく、〈歴史〉と〈物語〉は相反するのだが、事実が物語の環に繰り入れられるその瞬間に忘却される細部に、著者はものすごく丁寧に意識を向けている。〈歴史〉というのは、細部の忘却にほかならず、その瞬間を捉え、駆動する物語たる〈歴史〉を駆り立てながら、迷い立ちどまる自信を投影したみごとな〈物語〉を両立する本作は、たしかな教養に彩られているだけではなく、独創的なモードと文体、訳者のすばらしい手際も相まって、作品として異彩を放っている。それは、ジャンルの越境性でもある。

 もちろん、この作品はフィクションである。(ノンフィクションであることもできたと訳者あとがきに高橋啓氏が指摘している)ただ、事実と歴史に忠実であろうとする強迫観念じみた意識もある。ナチを題材にとる無数の小説からも、その位置は浮いている。訳者が非常によくこの点は整理されているのでここでは割愛する。ただやはり、284頁に著者が太字で記した「基礎小説(アンフラ・ロマン)」を書いているという自負、これは、小説とは何かと絶えず問う小説として、書かれるべきものだったということだろう。