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[読録]有島武郎「小さき者へ」

子を想う父の肖像が浮かび上がる、「小さき者へ」という作品は、妻を失った夫として、子を持つ父としての覚悟が綴られる。それは子が成人してから読む想定で描かれた夜想である。

 物心つかない子へ語るということを考える。時間が沸き立ち、考えるでなく一時的経験の連続の中で生きる子という存在に対しては、親はたじろぎながら、傷つきながら愛することしか能わずという感じである。というか、それ故にこうした迂路を通りながら父の愛は伝達されなければならなかったのだ。


何しろお前たちは見るに痛ましい人生の芽生えだ。泣くにつけ、笑うにつけ、面白がるにつけ淋しがるにつけ、お前たちを見守る父の心は痛ましく傷つく

(有島武郎『小さき者へ・生まれ出づる悩み』,新潮文庫版,20頁)


他人と暮らす、ということの意味を考える。他人というのはノイズであり、結婚というのはつまり、それを生活の中に導入することなのだ、と千葉雅也氏が語っていたのを思い出す。夫妻は、つねに他人で、そこには折り目正しい血による分断がある。しかし、その二つの血がどうしようもなく一つの血として繋がるのが、「子」の誕生である。実際に本作での「私」は妻が母となったことによって、自己を「父」として再認識し、自らの「無能力」をまざまざと見ることとなる。


私の小心と魯鈍と無能力とを徹底さして見ようとしてくれるものはなかった。それをお前たちの母上は成就してくれた。私は自分の弱さに力を感じ始めた。私は仕事の出来ない所に仕事を見出した。大胆になれない所に大胆を見出した。鋭敏でない所に鋭敏を見出した。言葉を換えていえば、私は鋭敏に自分の魯鈍を見貫き、大胆に自分の小心を認め、労役して自分の無能力を体験した。私はこの力を以て己れを鞭ち他を生きる事が出来るように思う。

(同書18頁)


現在のインターネットの言説に見られる育児をしない父親に必履修のマインドであることは間違いないであろう。夫になり、父になるということ。それは他者を生活の中に抜き差しならないほど深く導入し、それによって、自らの不能とまんじりともせず向き合う営みに他ならないのである。