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【H】なぜ私は(かつて)「れいわ新選組」支持者になったのか—ある余計者の日本政治観察期 since 2019(1)

このシリーズでは、社会の余計者的な人間である私の極々私的な回想を通じて、2019年以後の日本政治の一断面を切り取りたいと思う。

初回は2019年の参議院議員選挙について語る。ここから1年ほど私はれいわ新撰組を支持することとなった。

1、2019年の参院選―れいわ新撰組と大西つねき

私が現実政治にそれなりに真面目に関心を持つようになったのは2019年の参院選からだった。

それまでも政治思想や政治哲学、また現実の政治史などについて適当に齧ってはきていたが、この時までは特に支持する政党や勢力などを見出せていなかった。

それが変わリ始めたのは、2019年の参院選を前にして山本太郎がれいわ新選組を旗揚げした時からである。このとき同時にネット上の動画が選挙に大きな影響を持ち始めたように思う。いまにつながる流れの起点である。

私自身、以下のような動画を通じて、当時れいわ新選組に「興味」を持つようになった。久しぶりに見ても思うのだが、将来の歴史において、2010年代以降でもっとも重要な政治家として評価されるのは、おそらく山本太郎だろう。社会の疎外された人々を代表することから生じてくるものとしての政治家的な情熱についていえば、山本太郎は間違いなく本物であるように私は思う。

ただ単なる「興味」を越えて、私がれいわ新選組を支持するに至ったのは、山本氏の情熱によるというよりはむしろ、当時、同党の候補者だった大西つねきの存在による。私には大西氏の語る話が非常に新鮮だったし、今後の日本の真の改革の方向性を示唆しているように思えたのである。とくに以下の動画の1:24:00以降に語られている「お金の仕組み」の話だ。

これは後に知ったことだが、大西氏の話はPMT(肯定貨幣理論・公共貨幣理論)と呼ばれる立場に近い。私は、経済財政政策の議論は、信用貨幣論的な現実を前提としつつ、銀行の信用創造を擁護するMMTかその廃止を主張するPMTかという水準で議論されるべきであり、根本にある貨幣観のレベルで間違っている従来の主流派経済学はさっさとお払い箱にするべきだと思っている。

あれから5年経って、いまだにMMTやPMTが世間の言説の主流になっていないことに、世界の知的惰性の強さを感じる。それはある特定の考えを学び、その考えを表明することで地位を得てきた人々が、その考えを変えるわけにはいかないことから作りだされる惰性なのだろう。見解の変更が自己否定に直結してしまう事態、それが知的惰性を生み出す。

たとえばあくまで一例であるが、日本の経済の運営において主要な立場を占め、令和のブラックマンデーの戦犯トリオとしてネットでまとめて叩かれた岸田・植田・神田の各氏などは、MMTやPMTなど理解していないだろう。彼らのような枢要な立場を占める人々がこれらを理解していたら、日本の経済政策論議がこれほど低レベルであることはありえないからだ。

実際にブラックマンデーを引き起こした過程に重要な仕方で関与しており、偶然にもリズムよく三人とも「田」で苗字が終わり、学歴的にも日本の名門男子校三校が揃い踏みしているところが面白くてトリオとしてまとめて叩かれたわけだが、この首相(当時)・日銀総裁・財務官(当時)らは、おそらくはいまだに古い貨幣観を持ち続けつつ、日本の経済の舵取りに関して最も責任の重い立場についているわけだ。

間違った考えを長い間頭に詰め込み過ぎて、もはや彼らの頭には空きスペースがないか、あったとしてもそれを意識的にか無意識的にか塞いでいるのだろう。これまで自分がやってきたことを否定するわけにはいかないからだ。しっかり勉強してきたということが、必ずしも良い方向に働かないことの極めて重要な一例である。このことは誰もが肝に銘じておかなければならない。

このようなことが生み出す世界の知的惰性こそが、希望が最終的には世代交代にしかない所以であるし、日本と世界の将来に危機感を感じて、このように私も微力ながら発信を始めた所以である。

次回は、大西氏がれいわ新選組を除籍され、私もれいわ支持を辞めることになった2020年の「命の選別」事件について振り返ろうと思う。

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