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【H】なぜ戦後日本は平和だったのか?—非武装平和主義の成立と失効②—令和日本の「良識派」知識人を目指して(3)

この記事は以下の記事の続きです。


この記事では、なぜ戦後日本は平和であり得たのか、その平和を支えた、日米安全保障条約以外の諸条件を考察していく。

3-2-1、「狂った(mad)」方法による米ソ覇権戦争の回避

日本が戦争に巻き込まれなかったのは、第一に米ソの全面戦争、第三次世界大戦が生じなかったからだ。

近年、米中新冷戦に関連して、トゥキディデスの罠という言葉をよく聞く。ある覇権国に対して、別の国が挑戦するほどに強大化するとき、覇権闘争の一環としてかなり高い確率で戦争が生じてきたという歴史的な経験則を表現する語である。

米ソの冷戦は、資本主義対社会主義というイデオロギー対立を巻き込みつつ生じた覇権闘争であり、上記の論に従えば戦争に至っても不思議ではなかった。

それが、国連自体が二大国の対立によって機能不全に陥るなかで、全面戦争に至らず、世界各地での代理戦争(朝鮮、ベトナム、アフガニスタン…)という形を取ったのは、やはり直接対決、すなわち核戦争は防がなければならないという意識があったからだと考えるべきだろう。

相互確証破壊(Mutual Assured Destruction)、すなわち、核戦争が起きればお互いが確実に破滅するという仕組み、頭文字をとってMADと略される、この文字通り「狂った」核抑止体制こそが、米ソの全面対決を回避させたのである。このことは核戦争が意識されることで一気に解決が図られた、キューバ危機の経緯において明らかに示されていると思う。

これに対して、「否、MADは機能していなかった。核攻撃されているという情報があったのだが、現場が「誤報だろう」と判断して撃ち返さず、実際、後に誤報だったと分かったというような事例が何度かあるのだ、世界を救ったのはMADではなく、現場の人間の冷静な判断だった」などという議論もあるようである。

ただ、この議論が見落としているのは、「誤報だろう」という現場の判断の根拠だ。そこには「こちらを核攻撃するなら、自国も反撃の核攻撃で破滅するのだから、先制核攻撃などしてくるはずがない」という判断、すなわち、MADを織り込んだ判断があったはずなのだ。このようなことまでをも含んで、はじめてMADなのである。

3-2-2、大日本帝国の地理的特性・負け方・戦略・戦後改革

日本が冷戦期に戦争に巻き込まれなかった第二の理由は、より個別的な事情を考えることで理解できるだろう。戦後に激しい動乱を経験した諸国、すなわち、東西に分裂したドイツ、代理戦争の舞台となった朝鮮やベトナム、国共内戦を経験した中国と比較をするのだ。

3-2-2-1、ドイツとの比較―地理的特性と負け方の(最低限の)合理性

全土が戦時中に米ソによって分割占領され、その線に沿って分断国家となったドイツと比較して見えてくるのは、まず第一には島国という地理的特性の優位性だろう。イギリスも島国であることでドイツに負けなかった。日本本土に攻め入るのは容易ではなかった。

第二には、最後までは戦わなかった当時の大日本帝国の判断の最低限のまともさであろう。原爆投下、そして和平仲介の希望を託していたソ連の参戦、その流れの中でなされた昭和天皇の「聖断」。もちろん、それでも遅すぎたとは思うが、日本をドイツのような分断国家にしてしまったであろう本土決戦を回避したことは、大日本帝国の負け方として最低限の評価はできるように思う。

3-2-2-2、朝鮮・ベトナムとの比較―大日本帝国の戦略の再評価

続いて、朝鮮やベトナムの状況との比較を試みる。これらの国々が冷戦期に内戦に陥ったのは、西側陣営と東側陣営の最前線となったからである。なぜ、日本はそうならなかったのか。

先に指摘した地理的優位性や敗戦の(遅い中での)早さに加えて、ここで見えてくるのは、朝鮮半島を緩衝地帯として確保するという、明治維新以来の大日本帝国の方針の(道徳的ではなく)戦略的な妥当性ではないだろうか。最後の最後、ソ連の参戦の過程で、満州と朝鮮半島は明確に緩衝地帯として機能したのである。

もちろん、朝鮮半島に進出しなければ、その後の大東亜戦争(アジア・太平洋戦争)もなかったわけだが、その場合には朝鮮半島にかわりに進出しただろうロシアの従属国になり、それこそいまのウクライナのような位置付けの国にならなかったとも限らないことには留意したい。

3-2-2-3、中国との比較―農村問題の解決

最後に中国のことを考えたい。中国は第二次世界大戦後に国民党と共産党の内戦が生じ、共産党が勝利して国民党は台湾に追い出された。日本でも戦後の1951年に日本共産党がソ連や中共の指示で武力革命路線を取り、山村工作隊などを組織して農村へと入っていったことを思い出すとき、なぜそれが全く内戦などに発展せず、不発に終わったのかを考えざるを得ない。

日本における共産主義の弱さの背景には、冷戦構造が固まるなかで日本を自陣営に留まらせるためにアメリカが日本を厚遇し、人々の生活水準が高まることを助けたという側面も指摘できようが、1950年代初頭という時期を考えるならば、より重要なのは戦後改革、なかでも農地改革だろう。

そもそものマルクス主義は以下のように考えた。土地に縛り付けられ小作人として耕作に従事させられていた中世の農奴が、囲い込みなどで土地を追われて都市に流れこみ、土地への束縛からは「自由(free)」だが、同時に土地という食料を生産できる生産手段も「持っていない(free of …)」という、いわゆる「二重に自由」な存在となった。だからこそ彼らは生産手段を求めて、資本家が経営する工場に勤める労働者にならざるを得なくなったのだが、そのような時代こそが近代である。そして、この労働者たちが団結することで近代の資本主義を共産主義に向けて革命するのだ、と。

ただ、歴史的に見たとき、共産革命が成就したのは、労働者の多い近代化された国々ではなく、中世の農奴的な生活様式を強いられている人々が多く残っていた国々だったように思う。中国共産党は、地主の土地を小作農に分配して支持を広げ、「農村から都市を包囲」したのである。

このことをどう考えるか。帝国主義時代に入って、先進諸国が植民地を拡大、植民地を搾取することで自国の労働者階級の一部をも巻き込んで富裕化・保守化する一方で、その皺寄せが先進諸国の次に来るような二番手国に襲いかかっているのであり、そのような二番手国にこそ革命の好機があるのだというような、レーニンの帝国主義論が示唆する方向性の説明も考えられる。

しかるに、私はここで農民が歴史的に持ってきた性格というのも重要なのではないかと思う。歴史的には、農民とは、大地の上に生まれ、大地と共に生き、大地の内へと死んでいく人々である。農民と大地との物質的・精神的な繋がりはあまりに強く、地主の大土地所有等の障壁によって、農民が大地と切り離されるときには、農民はどこまでも急進的になりうる。

それはときに、フランス革命の指導者の一人、サン=ジュストの言葉を借りれば、「不幸な人々は大地の力である」と言われうるような圧倒的な力として顕現する。実際、フランス革命が最終的に収束したのは、地代が無償廃止されて、農奴の自作農化が達せられることによってだった。

このようなことは日本史のなかにもたびたび観察される。北条政子が承久の乱に際して演説したとされる「御家人の頼朝公への海よりも深く山よりも高い恩」とは、平家の治世において平家方の武士に奪われかけた土地所有権を取り戻して保証したことである。逆にいえば、平家の弱点は自らの権勢を頼んだ強引な土地所有権の移転にあった。それほど、まだ農民層と分化していなかった鎌倉武士の土地への執着は強かったのだ。まさに一所懸命である。

豊臣秀吉の太閤検地は、一地一作人の原則を完徹することで自作農中心の本百姓体制を作り、それが260年に及ぶ徳川幕藩体制の安定の基盤となった。農民層の階層分化によって本百姓体制が崩壊していくと共に、幕藩体制の基盤は揺らいで行った。

この階層分化は近代においても継続され、いわゆる1880年代の松方デフレで激化し、そこで一般化した寄生地主制度が、最終的に1930年代に昭和恐慌後のデフレ不況において、のちの大東亜戦争につながる軍部の突出の社会的背景になったと考えられる。昭和維新をうたって各種テロ事件を起こしていった青年将校たちの脳裏にあったのは、東北の農村出身の兵卒たちの境遇だったのである。

この寄生地主制度を解体し、小作農に土地の再分配を行ったのが、戦後GHQの農地改革だった。このような土地の取得によって農家の人々は保守化し、戦後の保守政党である自民党の強固な支持基盤となっていく。この段階ですでに共産党の山村工作隊は失敗を運命付けられており、それが日本で共産主義革命に伴う内戦が生じなかった大きな理由となっていると思われる。

3-2-3、本節のまとめ:なぜ戦後日本は平和だったのか?

冷戦が本格化し、朝鮮戦争が始まると、日本国憲法の非武装平和主義が後ろ盾としてしていた国連の機能不全が明らかになり、アメリカの要請もあって日本は再軍備する。非武装平和主義は、はやくも空文化し、せいぜいが防衛負担を米国に丸投げして自身は経済に集中するための「方便」にすぎなくなった。

非武装平和主義と国連との組み合わせではないとしたら、何が戦後日本の平和を維持したのだろうか。第一義的には、リアリズムのいわゆる勢力均衡を維持した日米安全保障条約であり、アメリカの核の傘であり、自衛隊の防衛力だろう。ただ、そもそも本当に深刻な戦争の危機自体がなかったことについては、そのような危機を経験した国々との比較を通じて、その条件を考察しておくべきだろう。

戦後分割されることになったドイツとの比較では、島国であるという地理的優位と敗戦の決断の(最低限の)早さが、この条件として指摘できた。

ベトナムや朝鮮との比較を通じて見えてくるのは、朝鮮を大陸との緩衝地帯とするという、大日本帝国の戦略の一定の妥当性である。それによって、結果として、日本は冷戦の最前線に立つことがなかった。

社会主義と資本主義との冷戦的対立を、自らの内戦として戦った中国との比較で見えてくるのは、戦後の農地改革で農村問題が解決されていたという条件である。共産主義革命は、歴史的に、小農民層の土地所有権が確立されて農村が保守化していない地域においてこそ求心力を持ったのである。

このような考察により、日本の戦後の平和を可能にした諸条件が明らかにできたと思う。それは少なくとも国連や非武装平和主義ではなかった。非武装平和主義は冷戦開始以後は、単なる「方便」に過ぎないものとなっていたのである。

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