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【H】片目だけ開いて、まだ寝ている—『真説 経済・金融の仕組み』を読む

今回の記事は、横山昭雄氏の2015年の本『真説 経済・金融の仕組み』の読書録である。

この本だが、10年も前だから仕方ないものの、一言で言えば、「片目だけ開いて、まだ寝ている本」である。つまり、半ば目覚めかかってはいるが、まだ寝ているのだ。

これは、MMT派貨幣論を受け入れている私の立場からはそう見えるということである。

MMT派貨幣論は、国家こそが貨幣の究極的な供給主体だとする「主権貨幣論」と、貨幣の本質を「譲渡可能になった借用証書(=支払い約束)」に見て、その延長線上で、現代においては銀行から誰かが借金をする際に銀行の「支払い約束」という形で発行される「銀行預金」こそが貨幣の中心を占めており、したがって現代の貨幣は銀行融資により「信用創造」という形で発行されるのだとみる「信用貨幣論」とをある仕方で節合したものである。

さて、本書の優れた点は、著者がこの後者の「信用貨幣論」を非常にうまく説明している点だ。著者は「信用創造」を又貸し的に説明したうえで、そこから日銀がマネタリーベースを供給すると、それの貨幣乗数倍マネーストックが増えるというような間違った「外生的貨幣供給理論」を徹底批判し、企業や家計の資金需要に応えて銀行が融資を行うことでマネーストックが増加すると、それに応じて金利を維持しようとする日銀の操作によって受動的にマネタリーベースが増えるのだという「内生的貨幣供給理論」を説得的に提示している。このあたりは今後も参考にしたい記述に溢れている。

他方、本書の残念な点は、金融に関しては目覚めている著者が、まだ財政に関しては眠っており、ポスト金本位制の現代においては「主権貨幣論」が妥当していることに気づいていない点だ。

現代の金融システムでは借金でしかお金が生まれない。もし民間が借金をしないなら、お金が存在するためには政府が借金をするしかない。そして、政府は究極的には通貨発行権を持っている以上、政府の借金にはそれ自体では何の心配もない。政府の借金は必要であり、そこにはそれ自体では何の問題もないのだ。

これにまだ気づいていない筆者は、「内生的貨幣供給理論」でもってアベノミクスの第一の矢である「大胆な金融緩和」を首尾よく批判したあと、第二の矢である「機動的な財政出動」については通俗的な財政危機論から尻込みしており、結果、第三の矢の「民間投資を喚起する成長戦略」に駆け込んでいく。構造改革による生産性向上だけが抜本的改革だという量産型の構造改革主義者の誕生である。

おそらくはこの盲点のために、著者は自分自身の日本経済の現状分析においても矛盾に陥っていく。著者は現代日本の現状を低圧経済と呼ぶ。これを著者は高度経済成長期のような高圧経済と対比する形で導入するのだが、この高圧環境を特徴づけるのは「需要超過」(p215)であるのに対して、なぜか著者は「低圧経済」を主に潜在成長率の低下という(需要側ではなく)供給側の要因で定義づけているようなのである。

これは明らかにおかしい。「高圧経済」が「需要超過」なのであれば、「低圧経済」は「需要過小」であり、その対策はまずは政府が財政出動によって需要を作り出すことであるはずだ。おそらく、著者はこの財政出動を上記の誤った認識により嫌ったがゆえに、「低圧経済」という自らが使った言葉を正しく「需要過小」の意味で使わず、それを潜在成長率の低下という供給要因に横滑りさせ、それに構造改革的な解決策を充てることにしたのだろう。

ここで、もう一つ著者に欠けているのが、強い需要こそが構造改革の推進力となるという視点、近年の「高圧経済論」「モダン・サプライサイド・エコノミクス」などで強調されている視点である。これが欠けているがゆえにこそ、著者はケインズ的な財政出動をその場しのぎの弥縫策として批判して、それではなくて根本的な構造改革だという話に持っていってしまう。

しかし、需要が強く、人手不足であればこそ、自動化を進めようといった生産性向上のための投資も起きうるし、あるいは斜陽産業に見切りをつけて成長産業に飛び込もうといった労働力移動も起きやすいのだ。需要過小を放置したままの構造改革は、既得権益にしがみかなければという人々の不安が強すぎて実行不可能か、それでも実行されるなら人々をますます不安にさせてデフレ不況を強化するか、そのどちらかの帰結しか生まないのである。

そういうわけで、本書は過渡期的な本であり、ある意味で2015年という時代を象徴しているような本である。すなわち、金融政策の効果の低さには気づかれつつあるものの、まだ財政政策への懸念が強かった時代の本である。

金融に関しては透徹した知性を見せる著者が、財政に関しては通俗的言説に毒されており、結果として本全体が矛盾に巻き込まれている様を見るとき、2020年代という時代の力のおかげで、こうやって10年前の本よりは何かが見えているつもりの私もまた他の何かについては盲目なのではないか、何か旧来の常識に囚われているのではないか、そういった批判的な内省の大切さが身に染みる。それが本書の最大の教訓かもしれない。


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