やり過ぎない、人生ほどほどがいい―『菜根譚』
「富める人」ほど「失う」リスクが大きい
「真の幸せとは何か」。
中国思想の研究者、湯浅邦弘大阪大学名誉教授(以下、湯浅先生)のテキスト『別冊100分de名著「菜根譚(さいこんたん)×呻吟語(しんぎんご)」』をもとに「幸せ」について考えるシリーズ。4回目です。
前回から、『菜根譚』の考え方を具体的に取り上げています。
自分から「幸せ」になろうとことさら求めてはいけない。不幸を避けようとして、ジタバタしないほうがいい。「天」が幸福を授けてくれるのだから、ということでした。そして、「財産や地位は、実態のない、頼みにならないものだ」と説いています。
まわりを見渡せば、社会で生きていくうえで、財産や地位があったほうが「豊かさ」や「名誉」は手に入れやすく、それは「幸せ」を感じることに限りなく近いように思いますが、『菜根譚』で説かれている幸福感はどうなのでしょうか? それをみていきましょう。まずは現代語訳から。
いっぱいに抱え込んでいる者は、失うものもまた大きい。だから、富んでいる者は、貧しい者がそうした心配をしなくてすむには及ばない、ということを理解すべきである。
また、足高に歩む者は、つまずき倒れることもまた早い。だから、身分が貴い者は、賤しい者が常に心安らかにしているのには及ばない、ということを理解すべきである。
つぎに読み下し文です。
「挫折の人」洪自誠らしい、人生の酸いも甘いも体験したことから、導き出している人生訓です。
富むことでもたらされる「不幸せ」とは?
地位が高くなること、出世することでもたらされる「不幸せ」とは?
いろいろと考えさせられますが、はたして、「貧しく」「賤しい」ほうが「幸せ」を感じることができるのでしょうか?
富や名声に執着すると「幸せ」を感じることから遠ざかってしまうのでしょうか?
これは財産や地位を極めること、行き過ぎへの戒めとして受け止めたい。 湯浅先生によれば、富や名声が、権力によって奪い取ったものでなく、正しい生き方をしているなかで自然に得られたものならば問題はない、というのが『菜根譚』の考え方です。
極めた先に待っているのは、「落ちる」こと
では、どういう人生を歩むのがいいのか。
著者の洪自誠が考えるところをさらに読んでいきましょう。まずは、現代語訳から。
つぎに読み下し文です。
湯浅先生は次のように解説されています。
幸福を求めるならばほどほどがよい。極めてしまわないほうがいい。その先に待っているのは「落ちる」ことしかないから、ということです。
たしかに、人生、どんなリスクや結末が待ち受けているか、わかりません。なにかの拍子で人生が暗転したり、運に見放されたとたん、一気に転げ落ちてしまう。
気が付いたときには、財産だけでなく、人の信頼、家族の絆、自分の健康など多くのものを失っていた。そんな人生の結末は迎えたくないものです。
地位や名誉を極めたその先に待っているのは、「落ちる」こと。だとすれば、生き方に正解はないけれど、なにごとも、ほどほどのところで満足するのがいい。やりすぎないのがいい。
『菜根譚』が目指している境地が、少しわかってきたように思います。
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