依存をさらに緩められた気づき
それは、人生は「苦」が前提であること。
以前も似たような記事を書きました。
厳しいようですが、依存というのは他人への過度な期待から来る理不尽な要求であること。
個人的にはそう考えます。
個人の問題を他人が抱える義務はない。
余裕がある人は一部を引き受けてくれるかもしれない。
そうであれば、感謝の気持ちを態度で示した上で、解決へ向けて共に頑張る。
義務でもないことをわざわざ引き受けてくれる相手に対して、(悪気がなくても)そうして当然のような態度を取ると、依存されていると感じて警戒心を発動させるだろう・・
以前のわたしがそうさせたように。
振り返ると、弱々しいと同時に傲慢さも併せて持っていた。
当時はとにかく無自覚なので、そのような指摘をされたら秒で"悲劇のヒロインモード"。
知ろうともせず、理解しようともせず、自分または相手を(心の中で)責める。
いま思うと、これが理不尽だなと大いに感じます。
「苦」という前提条件を受け入れる器を創ること。そして広げること。
苦しいのはイヤに決まってます。
だけど、どう抗おうと"自分以外"は思い通りに変わりません。
まずは、自分が落ち着ける環境を確保すること。
その上で、苦しみに満ちた社会の片隅で、
ちょっとでも気分が上がるセルフケアを施すこと。
わかりやすい劇的な変化は望めないけど、
この小さな行動を少しずつ積み重ねると、「塵も積もれば山となる」ということわざ通りに、気づいたときには大きな成果を得る。
これは、依存を緩めた現在のわたしです。
わたしの場合、主に以前所属したコミュニティで様々なことを学んだことと、このnoteの毎日更新ですが、このnoteを継続利用しているクリエイターさんの中には、その依存を緩める人と、却って強化しているのでは?と思われる人もいます。
結局は使い方によるということ。
noteもそう、与えられた有限な時間をどう過ごすか。
これらによって、先の未来が大きく変わるのではないかと思います。
時間は平等に与えられるけど、どう使うかは人間の意思次第。
具体的な方法を教えてくれる人もいるけど、人によっては合わないことも。
だったら、自分の意思に基づく行動をしない限り、本質的には何も変わりません。
自分の人生を使い倒す(つもりでいる)こと。
背伸びのようにも見えるけど、これでモチベーションを維持する。
わたしはこうして、日々流れる時間を少しでも多く価値時間に変えている。
そういう気分を自分自身に与えることは、
地味だけど重要に思えます。