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私の「現代文」論

拝啓 フォロワーの方を始めとした皆様
もうすぐ共通テストがありますね  (とんだ時候の挨拶だw)
まあそれは置いておいて

大学受験を目指すうえで重要な科目に、国語があります。
そして国語の点数の約半数近くを占めるのが、現代文
これを読んでくれている皆さんにも
”現代文が苦手or学生の頃苦手だった”
”教師の説明聴いても意味が分からない”
”選択肢をさいころ振って選んでいた”みたいな人がいるんじゃないでしょうか?(うん、最後の人はいわゆるベタ過ぎてある意味レアだなぁ…)

実は共通テストなどの模試で、東大志望生が最後まで満点に達しないのは、現代文だといわれています。
何故でしょうか? 彼らは微分積分を深く使いこなし、長文の難解な英語を読み解くことができるのに。彼らは共通テストの国語で、なぜか満点が取れません。そして彼らが最後まで落とすのが、現代文なんです。

今回僕は、今までと違い、受験が近づいてきたある高校一年生として、現代文という科目の秘密を探ります。


その前にまず、簡単な自己紹介。
私は、Φと言います。初投稿から一週間が経ちました。高校一年生です。
主に短編小説や詩などを投稿しています。

そして今回のタイトルにかかわる話ですが、僕は現代文が得意です。
中学1年の頃に一度、東進の全国統一テストを中学3年の部門で受け、国語が全体の受験者1万5000人中4番でした。
(英語と数学は年齢相応の悲惨な結果でしたが)
うん、自慢とかをするつもりはないので、
こんな感じで、自己紹介は以上とします~


では、本題に移りましょう。
現代文という科目の秘密とは何か?
私は3つの観点で分けられると考えています。
①解答者の母語であること
②”静”の姿勢で解く必要があること
③人の数だけ別解があるということ

ではさっそく

①について
皆さんの多くは日本人ですね?(じゃない人もいるかもなので一応”多く”と言います)
だから何だよって話なんですが
この点が、同じ言語系の科目 ”英語” との一番の相違点です✌
英語を読むとき、あるいはテストで解くとき、
”この単語の意味はこれで、この文法が入るから…”

みたいに、パズルのような感覚で多くの学生が取り組みますよね?
なぜなら、受験科目としての英語の多くは”解くために作られた無機物”であり、私たちの多くが第二言語として習うのは”勉強の対象であるモノ”だからです。

しかし、”現代文”という科目はその点で英語と一線を画します。
なぜなら、私たちが読む文章はほぼすべて、”テストなどと関係なく生まれた、人の意思の根付く文章”だからです。そして学習者の私たちの多くが、同時に母国語としての”利用者”でもあるからです。

だから実は、”現代文の文章”を解くときの貴方は、独りで問題と向き合わなければいけない訳ではないのです。だって、その文章の奥には、生きている”作者”という人間がいるから。あなたが作問者の問いに悩んだ時、貴方はいつだって文章を鏡に”作者”と”対話”できる。

どうして貴方はそう考えたの?
貴方はこの言葉をどう汲み取ってほしいの?

滑稽に思われる方もいるかもしれません。
でも、私たちには経験があるはずです。
文章という文字列を読んだ時に

感動して何故か涙が溢れてきたり、
作者の思いに共感したり、

それは文章という非生物の向こうで、確かに”誰か”と対話できるから。
たとえテスト中であっても、たとえ勉強科目であっても、作者という
”誰か”と対話ができる。それが母語話者が解く現代文という科目の、秘密であり素晴らしさだと私は思います。
では次に、

②について
社会人の皆さんでも、学生の皆さんでも、”テスト”を解くという経験が人生の中で往々にしてあると思います。
皆さんはどんな気持ちで、テストに臨み、問題に臨んでいますか?あるいは臨んでいましたか?
”さぁ、答えを考えるぞ!思いつけ!思いつけ!”
特に難問にぶつかるほどに、そう考える人が多いのではないでしょうか?

それは大抵の科目に対して正しい反応だと思いますが、

”現代文”に関しては、その態度は誤りです。
何故か、それは
”答えは文章の奥にあるからです”

よく似た言葉を、国語の授業で聞いたことがありますよね?
”答えは文章の中にあります!”
残念ながら、それもまた半分不正解。

僕も文章作品を書いているとき、いつも考えます。
”書きたい内容を、書かずに伝えるには…”
文章作品のミソは、大事なこと、伝えたいことを読者自身に感じて、考えてもらうことです。そうでなければ、もはや文章ではなくただの業務連絡になってしまいますからね。

作者は、文章読解の核となるような大事なことを直接書かないことが多いのです。けれども、作者は必ず文章中に、「文章のエッセンスにたどり着くためのヒント」をばらまいています。

だからある文章を考察し、理解するためには、”ヒント”というエッセンスへの扉を文中から感じ取り、扉を開けて進んでいく必要があるのです。

大事なことは、扉となるヒントが、ずっと開けてくれるまで皆さんを待っているということ。
貴方が無理に走ったら、かえってそのヒントを見逃してしまう。
貴方が勝手に走ったら、かえってそのヒントから遠ざかってしまう。

知らない土地を運転するとき、誰もがマップに従って進むはず。
”現代文”という科目を解くカギは、言の葉一つ一つを落ち着いて聞いて、見て触れて、マップの声を聞き逃さないこと。

無駄な”動”など要らない。
解く時の心境が、”徐かなること林の如く”であることが、重要なのです。

最後に、③について
皆さんは、文章作品のレビューなどを読んだことがありますか?
読めば読むほど、レビュワー一人一人の人間性がはっきり浮かび上がってきますよね。それは、
結局文章の解釈は読者個人に委ねられている ということなんです。
十人いれば十人、百人いれば百人の解釈があります。

だからこそ、文章作品は読んでて面白いし、それでこそ文学的な価値がある。それが”現代文”の取り扱う文章の、全てに一貫した本質なんですよね。
でも今、こう思った人がいるでしょう。

”現代文の答えって、一つしかないですよ?”

その通り、記述ならともかく、選択肢は答えが1つ。ここに現代文という科目の、受験科目ゆえのジレンマがあります。
ではどのように、”現代文”の答えは生み出され、どうしたら解けるのか?

驚くほど簡単な話。
間違った選択肢は、人工物として”無機質”なものにするのです。

人間のする”解釈”は、すべて正解でなければいけないのが文章作品。
だから絶対に、間違った選択肢には、何処かに”無機質なモノ”としての
違和感が醸し出されているのです。設問者の手によって。

どんな精巧な造花でも、生花と違い  ”生命力”  が無いのと同じように。

どの設問の選択肢にも、”生命力のある人の言葉”は一つだけなのです。



最後まで読んで頂き、ありがとうございました✌
Φは有名講師ではないですし、受験のプロでもありません。
でも、Φはいつだって”三歳児”のように純粋な眼で文章を見つめています。
その眼だからこそ、相次ぐテストに疲れしょぼくれた眼には見えない、文章の本質が目に映ることが、よくあります。

現代文という科目の残酷な美しさは、時に受験者の、努力をしないという努力が報われる処にあると思いますね。

受験前に、少しでも多くの受験生に届きますように、

3000字ちょうどでお暇します~✨








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