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【歴史小説】流れぬ彗星(5)「出陣の朝」


この小説について

 この小説は、畠山次郎はたけやまじろう、という一人の若者の運命を描いています。
 彼は時の最高権力者、武家管領かんれいの嫡男です。
 しかし、目の前でその父親が割腹自殺する、という場面から、この小説は始まっています。
 彼はその後、師匠の剣豪や、愛する女性、そして終生の宿敵である怪僧・赤沢宗益あかざわそうえきと巡り合い、絶望的な戦いを続けてゆきます。
 敗れても、何度敗れても立ち上がり続けます。
 全ては、野心家の魔人・細川政元ほそかわまさもとにより不当に貶められた主君・足利義材あしかがよしきを救うため。
 そして自分自身を含め、あるべきものをあるべき場所へ戻すためです。
 次郎とともに、室町から戦国へと向かう、混迷の時代を駆け抜けていただければ幸いです。
 どうぞよろしくお願いいたします。

世に不撓不屈の将は数あれど
足利義尹よしただ、畠山尚慶ひさよしの主従に勝る者はなし
~『紀和志』林堂山樹はやしどうさんじゅ

本編(5)

 黄道吉日こうどうきちにちの早朝、次郎は五ヶ所の館で、厳かな三献の儀を執り行った。
 具足もまた、移香斎が着用していた船戦ふないくさ用の胴丸鎧である。
 決して華美なものではない。小札こざねはすり切れ、糸縅いとおどしはほつれかけている。管領家の嗣子としては、もっとはるかに華麗な甲冑も身に着けていた。
 しかし、今までのどんな時よりも、次郎は誇らかな心持ちでいた。
「では、行ってまいります」
 船べりに足を掛ける直前、次郎は振り向いて折烏帽子おりえぼしの頭を下げた。
 師の移香斎は懐手をしたまま、むっつりとした面差しでこちらを見返している。
「次郎よ」
「はっ」
「これから何が起ころうと、そなたの一念は決して揺らぐことはあるまいな」
「無論のこと」
「何が起こっても、か」
「はい」
「ふむ。その言葉、決して忘れるでないぞ」
 いたわるような微笑で、師に応えた。
 踏立板の上では、さらしで髪をまとめ、小具足に朱塗鮫鞘の太刀をいた鯨が、既に待っていた。
 四つ菱紋の愛洲勢を先頭に、志摩衆、熊野衆など十艘あまりの船団とともに出帆した。
 潮岬しおのみさきを西へ廻り、波打ち際まで山並みの迫った荒磯に沿って、ゆるやかに北上していった。
 田辺で顔見知りの船頭らと合流すると、それぞれの船尾へ山のように焙烙玉ほうろくだまを積み込んだ。
「播磨勢は湯浅ゆあさの湊に停泊し、ひろの町を占拠している。十八挺の屋形船がおよそ十五隻」
 田辺衆は物見の報せをもたらした。
 広は口郡くちのこおりの大野、岩室と並ぶ畠山氏の守護所である。敵の総勢は四、五百といったところであろう。
「できるだけゆっくり進み、こっちの姿を見せつけた方がいい。船を失い退路を断たれるのを恐れ、敵はきっと沖まで出てくるだろう」
 鯨の指は意外に細く長い。板子の上に広げられた紀伊灘の絵図を、ともに見下ろしていた。
「勘所はここだ。栖原すはらの沖、毛無島けなしじま苅藻島かるもじまの間へ誘い込む」
 腰を伸ばし、指先を鉤型に並んだ小島のあわいに置いた。湯浅党出身の明恵みょうえ上人が、愛してやまなかったという名勝である。
「これだけの船をまとめて、そのようなことができるのか」
「あたしを誰だと思ってる」
「ならば、鯨の言うとおりにしよう」
 次郎は頼もしげにうなずいた。
 果たして注進の通り、敵の船団は湯浅の湾に水押みよしを並べていた。
 遠目にも壮観ではあるが、入江の内外で舷を接しているため、動きは鈍いはずだ。
「分捕り品をたっぷり積み込んで、腹も重そうだ。片帆で間切まぎりをし、とくとこちらの姿を見せつけてやれ」
 斜めに風を受けながら近づいてゆくと、岸辺に相手方の物見が出てきて、何やら話し合っているのが望まれた。
 とは言え、いぶかしむ程度の様子で、敵襲に慌てふためく者どものそれではない。
 次郎はふと、初めて愛洲の船を目にした時のことを思い出した。
「鯨、敵はこちらの船幟ふなのぼりを見て、若狭か安芸の者だと思っているのではないか」
 いずれも武田氏の分国であり、根っからの細川方である。愛洲の一族もまた、甲斐の本家より分かれた武田の末流であった。
「それならどうする」
「かえって都合がいい。このまま津へ討ち入り、できるだけ多くの船を焼き払ってやる」
 鯨もうなずき、水手へ下知した。
 紀伊方の船団は錐行すいこうに連なり、行き足を一気に上げて、湯浅の湊へまっすぐに突っ込んでいった。
 岸の者たちが、ようやく散らばって走り去った。先頭の舳先へさきが敵船の横腹へぶつかって止まると、何十もの焙烙玉が、尖った弧を描いて投げ込まれていった。
 火薬の炸裂する音が響き、花のように開いた火球が四方へ転がった。
 手綱や筵帆まで燃え移り、たちまち火の手が広がっていく。
 寝かされた檣や帆桁ほげたから黒い煙が立ち始めたころ、陸ではようやく貝鉦かいがねが鳴らされていた。
「この機を逃す手はない。私は敵の陣所へ斬り込む」
「わかった。あたしは弓で援護しながら、一旦船を後退させる」
「どうするのだ」
「ここで播磨の船団をみんな叩いておかないと、あとが困るだろう。残りの船をおびき出して、波の上で決着をつける」
 次郎はうなずくと、味方へ合図を送って端船はしぶねを下ろさせた。
「鯨、死ぬなよ」
「あんたこそ」
 二人は束の間、気遣わしげな笑みを交わし合った。
 爆音が耳をつんざく。焙烙玉を投げ尽くすと、紀伊方の船は矢を放ちながら、ゆっくりと岸を離れていった。
 燃え上がる火柱となった敵の大船の姿が、揺らめく水鏡に赤々と映し出されている。
 湊は混乱の極みにあった。
 ただ逃げ惑うばかりの小者、どうにか船へ乗り込もうとする水手、おっとり刀で立ち向かおうとする侍衆。ばらばらな人の流れが渦となり、怒号の中で互いにぶつかり合っていた。
 次郎を先頭にした一団は、そのただ中へ躍り込み、血煙を吹き上げながら人波を切り裂いていった。
「畠山尾張守が推参。赤松の手の者は、一人たりとも生きて播磨へ帰さぬぞ」
 大音声に呼ばわると、あちこちで悲鳴が上がり、恐慌を来たした敵方は背中を見せて逃げ出し始めた。
 それを追い立てながらまた五人、十人と斬り散らしてゆく。
「正覚寺の亡霊じゃあ」
 そのような叫びが耳に届いた。番所の小屋へ踏み込むと、全ての手向かいが止み、紀伊勢は声を揃えて勝鬨を上げた。
 海の方を振り返ると、ようやく動き始めた敵船は五隻もあったろうか。
 矢戦を仕掛けながら後退する海賊船に曳かれるように、のろのろと沖の方へ向かっていく。怒り心頭に発した泥亀のようだった。
 岸から一里ほども離れた二つの小島の間を、海賊船は器用に並んで艪走している。
 敵船もそれを真似て追いかけようとするが、前後さえ思うに任せない。一隻などは潮の流れに押され、苅藻島の南方まで離れてしまった。
 瀬戸の隘路に差し掛かったところで、敵の屋形船がためらいがちに帆を傾けて動きを止めた。さすがに死地へ入りつつあると感じ取ったのだろう。
 が、もう遅かった。
 志摩衆、熊野衆の船が島の裏側を回り、左右から播磨船の背後を包み込んでいた。
 その一点だけ大雨が降り注ぐかのように、矢玉で空が暗くなっている。海賊たちは熊手を投げかけて舷を引き寄せ、身を翻しながら敵船へ乗り移っていった。
「勝負はついたな」
 次郎は安堵の吐息を漏らした。
 男よりも大柄な鯨の姿が、船上からこちらへ手甲の腕を振っている。その長い影が、赤く傾いた日を鮮やかにくり抜いていた。

                           ~(6)へ続く

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