【歴史小説】流れぬ彗星(3)「移香斎」
この小説について
この小説は、畠山次郎、という一人の若者の運命を描いています。
彼は時の最高権力者、武家管領の嫡男です。
しかし、目の前でその父親が割腹自殺する、という場面から、この小説は始まっています。
彼はその後、師匠の剣豪や、愛する女性、そして終生の宿敵である怪僧・赤沢宗益と巡り合い、絶望的な戦いを続けてゆきます。
敗れても、何度敗れても立ち上がり続けます。
全ては、野心家の魔人・細川政元により不当に貶められた主君・足利義材を救うため。
そして自分自身を含め、あるべきものをあるべき場所へ戻すためです。
次郎とともに、室町から戦国へと向かう、混迷の時代を駆け抜けていただければ幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。
世に不撓不屈の将は数あれど
足利義尹、畠山尚慶の主従に勝る者はなし
~『紀和志』林堂山樹
本編(3)
武田菱を幟に掲げた三艘の船は、田辺の湊で女たちを降ろし、在地の船頭に預けて一夜を明かした。
翌朝の日の出とともに、熊野灘の峨々とした岸辺を左手に北上し、志摩国の小さな浦へたどり着いた。
河口の入江に、帆を下ろした五艘ばかりの船が佇んでいた。
そこから小さな川舟に乗り換え、形よく尖った山へ向かって遡っていった。
鯨は、桃色の小袖に若紫の細帯を締め、鼈甲の笄で髪をまとめていた。
「今度はどこへ連れてゆこうというのだ」
粗末な筒袖と平礼烏帽子に着替えた次郎は、船梁に腰かけながら腕を組んでいた。
「この川は五ヶ所川、あの山は、浅間山っていうのさ」
鯨は、答えにもならない案内で返してきた。
ほどなく舷を岸へ寄せると、川べりに立つ小庵へ導かれた。
「叔父貴! 入るぞ」
ずかずかと濡縁へ上がり、舞良戸を横に滑らせた。
仏間に痩せた初老の男が端座していた。
広袖に括り袴で、露頭の総髪を後ろで束ねている。射すくめるような眼光を隠しもせず、闖入者の方をじっと睨み返してきた。
「何だ、お前が来ると騒々しくてかなわん」
「今日はいい話を持ってきたんだ。こいつに剣を教えてやってくれ」
「お前の話は、いつも唐突過ぎる」
男は次郎の方へ一瞥を投げてきた。
「何者じゃ」
「守護家の跡継ぎ、畠山次郎だ」
鯨の方が勝手に答えると、ふん、と小さく鼻を鳴らした。
「これはあたしの叔父、愛洲移香斎ってもんだ。こう見えても、ちょっと前までは倭寇の親分だったんだぜ。陰之流、って兵法を自分で編み出したのさ」
次郎も簀子へ上がり、板間に膝を進めて男の正面に向かい合った。
「尾張守尚順」
「京で変事が起こり、河内では管領家が攻め殺されたと耳に挟んだが、まさかその生き残りを拾ってきたか」
「いい話だろう。今のうちにたっぷり恩を売っておけば、愛洲の里は安泰だぞ」
移香斎は節くれだった指で、白髪の交じった顎髭をさすっていた。
「お前が独り決めをしても、当人にその気がなければ、教えるも教えないもあるまい」
「大丈夫さ。父親の憎い仇を討ち、守護家に返り咲くためには、何だってするって約束したんだ」
促されたように、次郎は凡下の海賊に向かって頭を下げた。
「姪御のお言葉通りにござる」
むう、と腹の底でうなる。値踏みするような目つきだった。
「我ら愛洲の一族は、吉野の奥山から熊野、伊勢、紀伊に至るまで広がっている。ある者は修験を事とし、ある者は海に帆を立て、ある者は山に城を築いて在地を治めておる。しかし総じて後醍醐院の皇統を奉じてきた。貴家の争いにおいては、身一つで熊野の山中まで分け入ってきた右衛門佐殿を、親しくお助けしたいきさつがある」
右衛門佐とは、畠山義就の官途である。
綸旨により朝敵とされ、細川、大和の筒井、次郎の父政長の軍勢を向こうに回し、河内嶽山城で二年半も持ちこたえていた。が、ついに陥落して脱出したあとのことであろう。
「今は私が、身一つでこの志摩の海岸まで流れ着いているのだ。重代の恩を被っているわけでもなければ、義就の家へ義理立てし続ける謂われなどありますまい」
涼しい顔で言ってのけた。移香斎は懐手のまま、片眉を胡乱げに持ち上げている。
「一つ、尋ねたい。そこもとは父の無念を晴らしたいのか。あるいは、管領として柳営の大身となり、その手で武家を差配したいのか」
「いずれも、因果に過ぎないと存ずる」
次郎は恬淡と、しかし強い心を込めて語った。
「人ひとりにできることは、おのずと限られている。しかし一方で、人が何を許し、許さないかによって全ては変わる。理、というものが何であるかを決めるのは、およそ我らにできることではない。ただ一つだけ確かなことがある。理、の通らぬ世の中を許してはならない」
相手の険しい面差しを、打ち払うように見つめ返した。
「私は、あるべき場所にあるべきものを戻し、失われた未来を取り返したいだけだ」
沈黙が降りた。薄い山霧の向こうで郭公が啼き交わしていた。
「まあ、よいであろう」
移香斎は口の端に笑みを含み、瞼を閉じてゆっくりと首肯した。
「不倶戴天の敵同士であったと聞くが、そこもとは実の父よりも、右衛門佐殿に似ているようだ。鯨が見込んだ男でもある。我ら愛洲の船団は、畠山尾州殿に合力いたそう」
「心より感謝いたす」
次郎はもう一度、深々と頭を下げて礼を述べた。
「剣も教えてやってくれ。筋は悪くないと思う」
腕を組んで戸柱にもたれかかっている女が、背後から口を挟んだ。
「軽々しく請け合うでない。我が兵法を伝えるのであれば、すなわち弟子に取るということであるぞ」
「弟子のすべきことがあるなら、何なりとさせていただこう」
次郎はやおら立ち上がると、蔀に立て掛けてあった草箒を手に取り、黙って庵の前庭を掃き清め始めた。
室内に取り残された叔父と姪は、狐に化かされたような顔を互いに見合わせるしかなかった。
~(4)へ続く
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