愛洲鯨の冒険【歴史小説・流れぬ彗星スピンオフ】
この小説は、拙著「流れぬ彗星」第一部に登場した女海賊、愛洲鯨の少女時代を描いた前日譚です。
みなさまに「いいキャラ」と言っていただいた鯨を、もう少しだけ活躍させてみたいと思って書きました。
有料マガジン「流れぬ彗星 第一部」の特典としても収録しております(上、中までは無料でお読みいただけます)。
ぜひぜひ、愛らしくてかっこいい愛洲鯨の冒険を、お楽しみくださいませ!
大純はる
上
「おい、鯨! どうしてお前は、人の庵を裸で走り回っておる」
叔父のやかましい声が響き渡った。
が、鯨はてんで構いつけない。あかんべえをして、尻を突き出しながら股のぞきをしてやる。
「やめんか! お前も一応、女だろうが」
ケケケ、と笑って、裸足のまま裏の山へ飛び出していった。
真夏の五ヶ所だ。
蝉の声がかまびすしい。
浅い川瀬が、きらきらと光を跳ね返している。水底を泳ぐ小魚の群れが見える。
鯨には、両親はいない。
母という人は知らない。父は、海賊稼業をしていて、熊野の海に関を立てていた。通りかかる船を、片っ端からしょっぴいて、関銭を巻き上げるのだ。
が、それも海難で、鯨が幼いうちに亡くなってしまった。
別に淋しくはない。海とはそういうものだ、と思いつけてきた。
ふと、森の中で、落ち葉を踏む足音が聞こえてきた。
「誰だ」
こんな山中まで、人が立ち入ってくることは少ない。
物珍しさに立ち止まっていると、白樫の木陰から、一人の男が姿を現した。
「あっ」
と、思った。美しい。それが最初に受けた感じだった。
丈が高く、目元が涼しい。鼻筋がすっと通っている。
この辺りでは、見たことのない顔だ。
総髪を後ろで一つに束ねている。縹色の小袖と袴は薄汚れているが、さして気にならない。帯には打刀を一本差している。
相手の方も、どうやらこちらに気づいたらしかった。形のいい目を見開き、おやっ、という面差しをした。
やがて、ちょっと笑うと、きっぱりとした足取りでこちらへ近づいてきた。落ちた梢を踏み折る、ぱきぱきとした音が鳴った。
鯨は、足指をその場に打ちつけられたように動けなくなった。
恐れも、なくはなかったが、待ち受けるような心持ちの方が強かった。これから何が起こるのだろう、この身をどうしてくれるのだろう、という静かな気の高ぶり。
男は少しの迷いも見せず、気がつくとこちらの胸先に立っていた。椀のように丸く張り、桃色の先端がぴんと張った胸だ。
何のためにこんなに大きくなるのだろう、とずっと思っていた。
大きな手のひらが、焦色の肩に載せられた。そこにぐっと力が込められ、握り潰されてしまうのではないかと思った。それで顔をしかめ、
「やっ」
と声を出した。
すると、次の刹那には、もう枯れ葉の上に寝かされて空を見上げていた。
梢の葉叢に縁取られた、ぎざぎざの空のかけらだった。目の裏まで染み渡ってくるほど青い。男の顔の形なりにその青が遮られた。日影になってよくわからなかったが、それでもやっぱり美しいと思った。
こちらを見下ろす目だけはよく光っていた。
ずっと何かをされていたが、それが何なのかはっきりとはわからなかった。上になった男の前合わせがほどけて、紐がずっと胸の間をさすっていた。それがくすぐったく、変に心地よかった。
「生娘だったか」
そんな声が聞こえた気がした。かすかに笑いを含んでいた。
気がつくと、男の姿はもうなかった。
頭上はるか高くから、歌うような鳥の声が落ちてきた。空っぽの体の底に、じんじんと染みる痛みだけがあった。
鯨はそのまま、身を起こすことさえできずにいた。
「お嬢、お嬢」
野暮ったい声が聞こえてくる。
夢を引き破るな、と思った。荒々しく落ち葉を踏みしだき、足早にこちらへ近づいてくる。
「ああっ、お嬢。何てことだ、お嬢」
何てこともねえよ、と思った。ひょろ長い影がこちらを覗き込もうとしてきたので、さっさと体を持ち上げた。
目の前には、鱶作がいた。
下の歯の突き出た中年男だ。やたら長い顔に、ちょろちょろ髭を生やし散らかしている。愛洲の家の水手頭で、幼いころから何くれと世話を焼かせている。
そいつが萎烏帽子を傾け、みっともない顔つきをして、ぼうぼうと涙を流していた。
「お嬢、一体どこのどいつがやったんだ」
鱶作の目の先を追って、自分の股ぐらを見やった。裾が割られ、毛の間から血が滲み出ている。
月のものほどではないが、そこに白い唾みたいなものも混じっている。
「別に大したことねえ。お前、じろじろ見てるんじゃないよ」
片手を振り上げようとして、指先に紫色の紐がまつわっているのに気づいた。
その紐の先に、小さな石の彫り物が結えつけられていた。
振り子みたいに落ち着きなく揺れている。目の前に掲げると、鋭い牙を剥き出した獣の横顔のように見えた。
「そいつは、獅子岩だ」
と、鱶作が大げさな声を上げた。
中
「獅子岩まで、船を出したいじゃと」
叔父の移香斎は、声がでかい。
普段はぼそぼそ、聞き取りにくい小声で話してイラつかせるくせに、何かあったら雷が落ちたみたいな大声を出す。
「一体何のためじゃ」
「婿に会いに行くんだ」
「ムコ?」
なおさら声がでかくなったので、鯨は思わず両手で耳をふさいだ。
「それがそのう」
背後に座っている鱶作が、何とも言いにくそうな声を出した。
「素性の知れん男が、お嬢と無理に契りおったようで。それをお嬢は、嫁に取られたものと勘違いしているようなんで」
「おいっ、鱶作」
鯨は重たい尻を突き出しながら、背後の水手頭を厳しく睨み据えた。
「誰が勘違いしているものか。それに、素性が知れないわけではないぞ」
そう言って、始終大切に握りしめている彫り物を、叔父の目の前に吊り下げてみせた。
「あの殿方は、こいつをあたしに残していってくれたんだ」
「成る程、獅子岩か」
移香斎も渋い顔でうなずいた。
「しかし獅子岩の界隈は、鬼ヶ城の多娥丸の縄張りになっていると聞きます」
「鬼ヶ城の多娥丸?」
また振り返りながら、聞いたままの言葉を繰り返した。
「そう名乗っているだけで、本当の名はとんと知れぬ」
叔父がまた言葉を継ぐ。鯨は後ろを向いたり前を向いたり、板敷きの上でくるくると忙しかった。
鬼ヶ城は、熊野の七里御浜の北端にそびえ立つ、峨々とした岩場だった。
はるか昔の話だ。将軍坂上田村麻呂が、鬼の海賊多娥丸を、千手観音の加護を得て退治したという伝説がある。その首を埋めたのが、今の大馬社だと言われている。
そんな多娥丸に自らをなぞらえ、界隈の海に勢力を張っている海賊がいるというのだ。
「そなたの父が死んでから、熊野の海も大いに乱れた」
移香斎は片方の袖を持ち上げながら、重々しく息をついた。
「その隙をついて成り上がった、出来星者の類いであろう。とは言え、我ら愛洲の衆にとって厄介なのは間違いない」
叔父は一昔前までは、倭寇の親玉として大いに威勢を振るっていた。陰の流、などという剣術まで創始して、唐土の軍勢にもひどく恐れられていた。
だが今は、さる事情から隻腕になってしまったため、ちょこざいな若い賊を退治することさえできない。
「それなら、むしろちょうどいい」
鯨は敢えて声を励ました。
「多娥丸を愛洲の婿に取れば、熊野の海はまた安泰だろう。こいつは天が愛洲の里にくれた、おっきな贈り物ってやつだぞ」
「ふむ」
移香斎と鱶作は、への字口の困り顔を、こちらの頭越しに見合わせていた。
「お嬢、そうそう事がうまく運ぶものでもありませんで」
「はあ?」
「だいたい、鬼ヶ城の多娥丸の評判はすこぶる良くない。山中の村々へ乗り込んでは、乱妨狼藉を繰り返して食っとるっちゅう話ですぞ」
「何を言ってやがる、辛気臭いツラを並べやがって」
鯨は指を突き立て、小刀のように振り回しながらわめき立てた。
「そういうのが、オッサンどもの悪いところなんだ。何でもかんでも、やってみなけりゃわからんじゃねえか。鱶作、いいからとにかくさっさと、船を出す支度をしやがれっ」
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