makoto

物事は地味であれば地味であるほどいい

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最近の記事

高校魅力化プロジェクトに関心がある方へ

結論 お勧めしません。 某教育系コンサル(社名は伏せます)の公金ロンダリングでしかありません。 教育に誠実に携わりたい方は別の形を模索した方が絶対いいです。 矛盾が矛盾を呼び、自身の良心を削って取り組まなければなりません。 現在取り組んでおられる方々は、そのことを自覚した上でどうにか抗おうと努めている人と目先のことだけで気づけていない人に分けられ、 後者が大半を占めています。 抗おうとした人たちから順にプロジェクトから離脱し、頓馬が残っていく世界です。 教育に対して真剣で

    • 「SDGs」について

      ひとことで、嫌いである。 何で嫌いか、胡散臭いからである。 普通に考えたら分かる。ビニール袋をエコバッグに変えて、ストローを紙に変えて、何が変わる? 極端な例かもしれないが、根本的な課題解決から目を背け、環境に、地球に、人に対して良いことをしていると思いたいだけの免罪符に過ぎない。 何もしないよりいいだろう? と思うかもしれない。 だが、根本的な課題から目を背けつづけ、中途半端でデタラメな主義主張を是とし、進んでいく方がよっぽど不誠実である。 自らの消費行動自体を省み

      • 「承認欲求」について

        日頃SNSをあまり使わない私だが、 noteでつらつらと文章を記録する際に、僅かにでも閲覧数等を意識してしまう自分がいる。 この感情が肥大化していき、最終的に承認欲求お化けができあがるのだろう。 なるほど人にとって、「理解してほしい」「見てほしい」といった感情に対して、他者から承認されるとき、人は、「同じ」と思える安心感が醸成されるのか。 だが、同じくらいに「そんな簡単に理解されてたまるか」といった反骨心みたいなものを抱くこともある。 自己と他者の関係性において、そう

        • 「読書」について

          中学生に読んだ本 高校生に読んだ本 大学生に読んだ本 社会人1年目に読んだ本 社会人5年目に読んだ本 書籍の主なジャンル、抽象度、難解度等は読む時期によってまるで異なる。 これは、読書の経験(読んだ冊数の増加)に伴うことで、手に取る書籍の質が上がる、わけではない。 「本から知見を得る」ことは、往々にしてあるわけだか、あくまで情報収集の域を超えていない。 読者の実社会での経験の蓄積により、考えうる世界や対象が拡大することによって、それらを自ら思考することによって、思考の質

        高校魅力化プロジェクトに関心がある方へ

          「知識人」について

          現代において知識人たるは、大学教授や専門家と呼ばれる職能人などを想起する。 が、そもそも専門性とは何であろうか。国や政府が定めた指標や認定試験においてお墨付きを取得し、その業界に属しさえすれば、速やかに専門家と呼ばれるのだろうか。 例えば、教員免許を取得し採用試験に合格、その後教壇に立つだけで、果たして「教育分野の知識人」と言えるだろうか、否。 ややもすれば、単なる権威を代弁する存在にしかなりえない。 このような現代の知識人と称する人々の在り方に一石を投じるのが、サイード

          「知識人」について

          「共感」について

          世の中には2つの世界があると思う。 一つは今活動している実世界。 そしてもう一つは自分の内側にある個人的な内的世界。 この二つの世界を基本的に行き来することになるわけだが、相互に理解し合いえない”chasm(キャズム)”が生じることがある。 そのキャズムを解消するためにどうしたらよいか? 「共感」できるように努めるのが1番な気がする 具体的な行動としては、 ・理解できる言葉で話す(専門用語多用しない) ・目線を合わせる(上から目線で一方的に話しても誰も聞いてくれない)

          「共感」について

          「頓馬」について

          なかなか強烈な言葉である。 解剖学者の養老孟司氏は以下のようなことをおっしゃっていた。 「頭がいいと頭がタフは違う」 俗に言う「勉強ができない(苦手)」が頓馬ではない。 「考えない、考えれない、考えたくない」が頓馬である。 ① 今の自分では理解不能な事象や出来事に日々生活していれば、いくつか遭遇する。 ② ①について、時間は要するが思考し、考えうる「解」を導きだす。 ① は「感覚」である。何か違和感がある、心地よくない、謎めいていると感じることができるか。 ② は「

          「頓馬」について

          「教育」について

          教育とはいったい何なのか。 私は数年間、その教育と世間では呼ばれうる場所で勤務しているわけだが、未だに謎である。 私が観測するかぎり、教育には実体がないのだと思う。公教育や高等教育などでは、彼らなりの教育観に基づいて教育を実践しているわけだが、その一連の行為において、私は甚だしい違和感を感じ続けている。 教育を取り巻く現状を私はこう捉える。 「大人が子どもを食い物にする大人の自己承認及び自己満足増幅装置」 私が関わる業界では、頓馬であり、自己中心的かつ短絡的な思考回路で

          「教育」について