「承認欲求」について

日頃SNSをあまり使わない私だが、
noteでつらつらと文章を記録する際に、僅かにでも閲覧数等を意識してしまう自分がいる。

この感情が肥大化していき、最終的に承認欲求お化けができあがるのだろう。

なるほど人にとって、「理解してほしい」「見てほしい」といった感情に対して、他者から承認されるとき、人は、「同じ」と思える安心感が醸成されるのか。

だが、同じくらいに「そんな簡単に理解されてたまるか」といった反骨心みたいなものを抱くこともある。

自己と他者の関係性において、そう容易く理解し合えないからこそ、
他者に自ら迎合して、相互に承認しあう表面上の関係性を選ぶか、はたまた、

自己を貫くことによって、真に認め合える数少ない「理解者」との遭遇に期待するか

選択は二つにひとつである。

私は後者にかけたい。

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