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『日本人の身体』安田登著:境界が曖昧な、人や自然とのつながり

本の紹介文より:「本来おおざっぱで曖昧であったがゆえに、他人や自然と共鳴できていた日本人の身体観を、古今東西の文献を検証しつつ振り返り、現代の窮屈な身体観から解き放つ。」

内容の箇条書きメモ。

病名を付ける(ネーミング)ことで、個別の身体が忘れられてしまう。(8-9ページ)

身体を意識するのは、病気になったりけがをしたりしたときだ。(44ページ)

能は、死者の声を聞く芸能である。 死者に一時的にこの世に戻ってもらって、果たせなかったことをして、満足してもらう。何度でも出てきてもらえるのが、能。(60-61ページ)

日本では、脳のように、一人が言いかけた言葉を相手が引き継いで、会話がつながっていく。これを「共話」という。(84-85ページ)

自分と環境が一体化すると感じる。その中で物事を考える。(129-131ページ)

精霊が見えて、存在もしていることを、精霊が見えない人に証明することはできない。しかし、自分に見えないからといって、存在しないことにはならない。死者も、生きている者に触れることがある。(150-151ページ)

日本の文化では、内と外の境界が曖昧で、自分と他者の区別も曖昧だ。日本に限らず、子どもは、夢が現実に入ってきたりする。西洋の文化では、そうした境目を明確に区別していくことが、大人になることだと考えられている。一方、日本の文化では、「あわい」をそのままにしておこうとする。(159-160ページ)

食事には、食べる人のこれまでの歴史が如実に表れてしまう。誰かと一緒に食事をすると、それを共有することになる。それだけでなく、食事は口という粘膜を剥き出しにする行為である。粘膜同士でつながるのが、人との飲食だ。植物と宇宙には、人間のような皮膚はなく、粘膜を、内部を剥き出しにしていて、境目もない。(164-165ページ)

日本的な文化では、自然に対しても人に対しても、直接的に関係を持ちたいと思う。しかし、皮膚などの殻があってかなわないため、殻を破りたいというのが原初的な欲求になる。(170-171ページ)

幕末の堺事件で、土佐藩士が割腹をし、自分の腸をフランス人に向けて投げたのは、潔白な心を見ろという意味の行為だった。(188ページ)

古代ギリシャでは、人間を生け贄にして、その人肉を食べていた。英雄の頭蓋骨を太鼓にして、その人と一体化しようとした。(193-194ページ)

「もののあはれ」は、自然のあちこちに存在する。それを受け取って「あはれ」を感じるかどうかは、その人次第である。内部が剥き出しになって外に流れ出すという、センサーが敏感になっている状態かどうかによる。(206-207ページ)

クロマニョン人やクジラ・エスキモーの人たちは、集団で狩りをするために、みんなで歌って、息を合わせていた。(216-217ページ)

中国の古典の『荘子』にも、呼吸法によって心をコントロールできると書いてある。(218ページ)

能では、息で間を取る。能の打楽器である鼓には、3つの音の要素がある。1つ目つは鼓の音、2つ目は掛け声、そして3つ目は無音の音である「コミ」(込み)。おなかの深いところに息を込めて、間を取る。(220ページ)

能は、過去をなぞることによって、未来を予見する。(225ページ)

言葉は、「事の端」、物事のごく一部を表しているにすぎない。しかし、時に精巧な映像よりも言葉の方がよく伝わることがある。言葉以前の声だけで伝わることもある。声ですら邪魔なこともある。言語化できないものを無音で伝える。(227-229ページ)

能管は、あえて、どれでもいつでも同じ音を出せるようには作られていない。そのため、みんなで演奏すると、音が合わないし、合わないからこそ合うとも言える。しかも。わざわざ音が出にくくなるような仕組みになっている。それは、絞り出すような声を出すためである。(238-240ページ)

能では、年を取るほど深みのある声が出せるようになる。しかし、現代の日本では、老いは敵視されている、あるいは恐れられている。(240-242ページ)
能の『井筒』では、亡霊である女性が男性に憑依されて舞を舞う。しかも、女性を演じているのは男性であり、ジェンダーが交錯している。(243-244ページ)


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