「あるがまま」に生きる
北西憲二『はじめての森田療法』を読んだ。森田療法の歴史から現代まで分かりやすく、ですます調で説明されている。どちらかというと分かりやすい本だった。とはいえ、文字だらけなのと、仏教的で難しい面もある。
物凄く極端に言うと、「症状があっても目の前のことをやって『あるがまま』に生きろ」ということだ。もちろんこんな単純ではない。まあその辺のことが詳しく書かれている。
森田療法の創設者である森田正馬は、治ることについてこう言っている。
と、中々厳しいことを言われている。
西洋医療では症状に着目する。薬物療法も精神療法もそうだ。ただ、森田療法はその症状を『あるがまま』に受け止める。仏教や東洋的な思想がある。
北西氏は「人の回復のプロセスは共通の構造、あるいは共通のストーリーを持つ」と思われ、この回復変化をまとめられている。
まあ要は、冒頭にも書いた通り、「症状があっても目の前のことをやって『あるがまま』に生きろ」だ。中々厳しいことを言われている。
僕はこの森田療法の本を読んでいて、前にも書いたが、坂口恭平が言っていることに近く感じた。彼は死にたい人に対して、「手を動かせ」と言う。森田療法もざっくり言えば同じだ。もしかすると坂口恭平も森田療法の本を読んだのかもしれない。
例えば、鬱になると周りから、「あれこれやったら」と言われる。ただ、本人はそんなことできない、と思う。そりゃ鬱なんだから仕方ない。僕も「あれこれやったら」と言われたが、それどころじゃなかった。まあ急性期は何もしないで横になっているのがいいらしい。森田療法の中でも何もしないで横になるだけの時期がある。ただ、活動をする時期もある。要は目の前のことを「あれこれやる」のだ。家族や知人に言われたくらいでは、そんなことできないと思うが、森田療法や坂口恭平に言われると、「ここはひとつやってみるか」という気になってくる。説得力が違うのだ。
普通の人は意外と立派で、何もやっていないと精神が狂うことを知っている。だから症状にこだわっていないで、「あれこれやったら」という。どうやらこの症状にこだわっているのが良くないらしい。それは症状に囚われているらしい。症状があっても何かしらやっていくのだ。
ただ、この森田療法が鬱に当てはめられるのかどうかは知らない。本書では鬱というより神経症的なものの症例が書かれていた。とはいえ、参考にはなる。動き出すための一つのきっかけになると思う。
もう鬱に関する本を読みすぎた。これでやめようと思う。あまり色々読んでも混乱してくるだけだ。要は鬱を治すには、治すための「努力」をして、医者を「信頼」して、無理な時は「休養」して、あとは「時間」が解決するのを待つしかない。僕は鬱に関する本を色々読んで、最終的にこのような考えに至った。