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この記事を読んで不快に感じたあなたは一度、「絶望の谷」へ落ちるべき。


本文に入る前にまず、このポストを読んで欲しい。


いけみ ゆこ氏のスレッズより引用

このポストは、所謂クリエイターに向けたメッセージとしていけみ ゆこ氏は投稿されたわけですが、「note」の利用者(主に見るだけでなく、記事を作る人)にも当てはまる内容だと思います。

というのも 記事作成プラットフォーム「note」には、ユーザー(noterと言うらしいですが)から作品を観た感想が日々、投稿されています。

そこで、考えてほしい問題が一つ。

「あなたは、あなたの文章を読む人のことを意識してその記事を書いていますか?」

ということです。


抽象表現



実は上記のポストに出会うをきっかけとなった記事があったのですが、晒上げて糾弾したいわけではないので、割愛します。

しかし、やはり言いたいことがある。

最近、配信開始となった某アニメ映画の感想記事の中で登場人物の二人があるきっかけで出会い、同じ夢に向かって一致団結し、些細なきっかけで別れ、再び出会うというような物語展開を「繊細な心理描写が非常に魅力的である」と表していた。

そこで私はこう疑問に感じた。

「繊細な心理描写というのはどこのシーンのどのセリフをどのように受け取って、出てきた言葉なんだ?」

細かく、紐解いてみよう。

まず、その感想記事の筆者が語る物語展開自体はさして珍しいものではなく、王道の展開だ。二人の登場人物を中心とする話であれば付かず離れずを繰り返して起承転結を作るのは、当然である。

しかし、王道の展開だから「繊細な心理描写」という抽象表現を使うべきではないと言いたいのではなく、王道の展開であっても物語の深堀の仕方(芝居、セリフ、演出等々)さえ工夫すれば如何様にも作品は面白くなるし、「繊細な心理描写」と呼ぶに相応しいシーンだってその工夫次第で生まれるはずだ。

であれば、その王道の展開の話ではなく、「繊細な心理描写」と感じた工夫の話を読みたいのだがその後、件の感想記事を読み進めても工夫について深く言及することはなかった。

「???」

「もしかして、この感想記事の筆者は、王道の展開のことを繊細な心理描写と評しているのか?」

「いやいやそれは、表現として不適切だろう。」

心理描写とは、作中人物の心理過程や意識の内面を分析して描き出すこと。とwikipedeaには記されている。

無論、wikipediaを無条件に信頼するつもりはないが、登場人物の二人があるきっかけで出会い、同じ夢に向かって一致団結し、些細なきっかけで別れ、再び出会うというような付かず離れずの物語展開になぜ、なったのかの理由を作中の人物の言動、行動、心境の変化、感情の変化から感じ取った上で
それを感想記事の中に記し、それらの総評として「繊細な心理描写」と表した。

これなら納得できるが、なぜ、その展開になったのかの理由をすっ飛ばして「繊細な心理描写」と表現されても「あなたは、どこのシーンのどのセリフ或いは芝居からそう感じたのですか?」という疑問が募るのみ。

しかし、

「なぜ繊細な心理描写と件の記事の筆者は表現したのだろう?」

ここで私は、「件の記事の筆者が考える自身の文章力・分析力と実際に出力されている文章・記事から読み取れる文章力・分析力との間に隔たりがあるのではないか?」と分析する。


そして、その根拠となり得る興味深い動画がこちら。



上記の動画内で、日本の江戸文学・江戸文化・比較文化研究者であり法政大学総長も歴任された田中優子氏が「本を読む理由」についてこう語られた。

人は生きている限り「何かを伝えたいが中々気持ちを言葉にして上手く表現できない」という体験をする。正にその時のために読書をする必要がある。
なぜなら、気持ちを言葉にして上手く表現できないということは、自分の中に言葉(語彙力・表現力・文章力)がないということ。だから、それを改善するために読書をするのであって、教養が必要だからなんていうつもりはない。にも関わらず(大学の教授・学長としての経験則から)読書をしない学生が多いというのは、もしかして「何かを伝えたいが中々気持ちを言葉にして上手く表現できない」という体験そのものが不足しているのではないか。そして、その体験を不足させている原因に「承認されれば良い」という「承認欲求」の問題が関わっているのかもしれない。

上記の動画より抜粋

正に、件の記事の筆者に送りたい内容なのだが、

私なりに件の筆者の思考を推察すると、

自分が受け取った感動を他者に伝えるための経験値(語彙力や文章力、分析力等々)が件の記事を書いた筆者には足りていない(足りていないことを自覚できていない)のに「自分の感動を文章にしたい」という欲求(もしかすると書きたい欲求ではなく、自分が書いた記事を承認されたい欲求なのかもしれない)にかられ無理やり文章にしてしまった。

その結果、具体的な例やそう感じるに至った根拠・理由を提示するための努力(対象の作品について深く考える)を怠っていることに気付かないまま「私は、この作品を分かっている」という自信だけが先行してしまい、皮肉にも読者にその自信を証明するために使った「繊細な心理描写」という抽象表現によって失礼だが筆者の能力(語彙力・表現力・文章力)の低さが表面化してしまっている。

と考えられる。

そして、そのような人達に向けてこそいけみ氏は、

「経験も理解もまだ浅いのに語ろうとしてる時は、なんかかっこいい風の抽象表現に逃げようとしてしまって、 いや語るほど経験値ないわ。と気づき、語るのを辞めて手を動かす。」

と表して、改善策を提示してくれているわけです。


私は、この最後の一文が、大事だと思う。


己の経験値不足に気付くということは、己を主観的ではなく客観的に見れている証拠。

だからこそ、「己の経験値不足を自覚することは、より良い作品を作るためのきっかけになるはずだ。」とクリエイターに向けて説いている。

大事なのでもう一度言いますが、この意識はクリエイターだけに必要なのではなく、文章を用いて「自分が作品から受け取った感動を伝えたい」「作品の魅力を発信したい」と考える人ならば私も含めて素人、プロ関係なく全員に必要な意識ではないかと思う。


ダニング・クルーガー効果


ではなぜ、私たちは己の経験値不足に気付けないのか?

その根の話に移りたい。

まず、ダニング・クルーガー効果という言葉を知っていますか?

ダニング=クルーガー効果 とは、ある領域において能力が低い者は自分の能力を過大評価する傾向があるという認知バイアス(思い込み)の仮説である。

分かりやすく、図にしたものもあります。


ダニング・クルーガー効果


自信を縦軸、知識・経験を横軸にした図。

注目してほしい点が1箇所。

それは、「馬鹿の山」(少々の知識、経験を得て、自信を持っている)です。

私はこの状態が、抽象表現の話に深く関わっているのではないかと考えています。

まず、件の記事の筆者は、この解釈に則るといけみ氏が言うところの「なんかかっこいい風の抽象表現に逃げる人」であり、「経験も理解もまだ浅い人」。

よって、「馬鹿の山」にいる人と仮定します。

すると、私の考察にも現実味が帯びてきます。

件の記事の筆者は「自分は作品のことを分かっている」と思っている。

だが、知識・経験が不足しているため抽象表現を使うに至った具体例や根拠を提示できないし、そんな必要があることすら考えていない。

それでも、「自分は作品のことを分かっている」という自信だけはあるから自分は作品を正しく評価できているし、「繊細な心理描写」という抽象表現さえ使えば、読者にも自分の伝えたいことが伝わるはずだし、伝わっていないわけがない。と思っている。

と解釈できます。

これで、「己の経験値不足に気付けない」のはダニング・クルーガー効果のせいであることが分かりました。

では、そもそもなぜこのような人が自信を持ってしまうのでしょうか?

根拠の無い自信というのは、ただの妄想のはずです。

しかし、件の記事の筆者が妄想たくましいが故に自信に満ちあふれているようには見えない。

自信を持つに至る根拠があるはずです。

次はその話に移ります。


絶望の谷と損得の壁


ダニング・クルーガー効果の図ですが、「作品を評価する」という条件下では少し、改良が必要だと考え、手を加えてみました。

それが、こちら。


改良版


どこが変わっているか分かりますか?

一つ項目が増えていると思います。

ですが、その説明の前に「絶望の谷」について考えたいと思います。


「絶望の谷」(知識の深さを知り、自信を失っている)

皆さんは、この状態になったことはありますか?

私はあります。

経験談を少し話しますと

私には幼少期からずっと好きだったアニメ作品がありました。

ある時、その作品についてプロの批評家・評論家が複数人集まって議論し合う座談会なる動画を見つけ、視聴してみると強烈なショックを受けました。

なぜなら、その動画内で話されている批評・評論は私が思いもよらない考えもしない視点でその作品を称賛するものだったからです。

「嗚呼、私の作品の観方、考え方ってこんなに浅はかだったのか」

と視聴後、盛大に落ち込みました。

この体験こそ「絶望の谷」に落ちる瞬間だったと考えます。

もう一度、聞きますが皆さんはこんな状態になったことがありますか?

ないのであれば、それはあなたに鑑賞力があるからではなく自分よりも高みにいる人達の文章を読んだことがないからです。

正に「井の中の蛙大海を知らず」

私のように「絶望の谷」に落ちる経験があれば井の中の蛙であったことに気付き、自信を失い、大海に飛び込んで自信を取り戻す努力をするはずですが件の記事の筆者はなぜか自信に充ち溢れている。

ならば、「馬鹿の山」から「絶望の谷」に落ちるのを阻む何かがあるのではないか?

そこで思いついたのが、図に付け加えた「損得の壁」です。

「損得の壁」【「馬鹿の山」にいることが得になり「絶望の谷」に落ちることが損になる】

具体的に説明します。

これも先日の呟きです。

評価経済社会とは、評価影響を交換しあう経済形態により現代社会を説明しようとする考え方。

分かりやすく言うと、貨幣(物の値段・質)よりも評価が多ければ多いほど影響力は強くなり、その分、換金もしやすくなるということです。

XをはじめとするSNSでは、日々、公式アカウントなるものが投稿し続けて、人々の関心を集めようとしています。

それも、評価が欲しいからです。

人々の評価さえ集まれば、物の値段、作品で言うところの質がどうであれ、「価値があるもの」と多数派(世間)に認識され、換金しやすくなる。

例えば、劇場に行ってお金を払ってもらわなければ商売にならない劇場作品では、興行収入が命です。

では、興行収入を増やすためには、どうするか?

お金をかけて大々的なプロモーション(CM、イベント等)をする?

いやいや、X等のSNSでPRするほうがお金も掛からないし、口コミが広がれば関心を集めて、集客が狙える。

ここで、重要なワードが出ました。

「口コミ」

これこそが、「損得の壁」を作る材料です。

当たり前の話ですが、

「この作品面白いよ」という単純な口コミ

「この作品面白くないよ なぜなら~」という批評

どちらが、拡散されやすいですか?

当然、前者です。

なぜなら、その口コミは、誰でも理解できる内容だから。

プロが書いた批評なんてのはある程度、事前知識や共有する前提がないと何が書かれているのか分かりません。故に評価が流通しにくい。

その点、中身のない称賛口コミは、評価が流通しやすい。

評価が流通しやすい=評価を集めやすい=集客しやすい=お金になる

単純な話です。

じゃあ、その評価を集めるのに最適なのはどんな文章か?

それが「馬鹿の山」にいる人達が書く「中身のない文章」です。

これも当たり前の話ですが、中身のある批評や評論を書く人よりも中身のない口コミレベルの感想を書く人の方が圧倒的に多い。

また、「馬鹿の山」に居座り中身のない文章を読みたい人の方が「絶望の谷」を経験した中身のある文章を読みたい人より多いのも書く人の割合を鑑みれば当然。

故に、多くの人から関心=評価を集めるには、批評なんかより口コミの方が都合が良い。

ここで、「馬鹿の山」にいる得が発生します。

マーケティングする側も「馬鹿の山」にいる人の評価の方が流通しやすいから使い勝手が良いし、「馬鹿の山」にいる中身のない文章を書く人も「馬鹿の山」にいる人達(多数派)にむけた文章のほうが関心(いいね・スキ)を集めやすい。

つまり

「損得の壁」=評価経済社会+自己承認欲求

以上、これらの理由から

「損得の壁」が「馬鹿の山」から「絶望の谷」に落ちる人達を阻んでいる。

或いは、そびえ立つ「損得の壁」が「馬鹿の山」から見えるはずの「絶望の谷」を覆い隠してしまった。と言い換えることもできる。


そうすると、件の記事の筆者がなぜ、自信に満ちあふれているかの理由も分かるようになる。

それは、

「損得の壁」が「馬鹿の山」から見えるはずの「絶望の谷」を覆い隠すことで記事そのものの質を問われる前に自分の書いた記事が関心(スキ)を集める経験をして自己承認欲求が満たされてしまった。

故に自身の能力の有無について自省することもなく「自分の文章には影響力があるんだ」と倒錯し「自分には作品を正しく評価する能力があるはずだ」という認知バイアス(思い込み)をより一層強めてしまった結果、感想を書くために必要なはずの知識・経験が不足していることに気が付かない頓馬が自信(過信)だけもってしまった。

ということでしょう。


根拠


最後に端的に結論を書くことでタイトルを書くに至った根拠を明確にしたいと思います。


なぜ、「この記事を読んで不快に感じたあなたは一度、「絶望の谷」へ落ちるべき。」と私は言うのか?


理由は、

SNSの発展によって書いて発信することが一般化し、その弊害で筆者にリテラシーが求められなると「承認さえあれば良い」という「自己承認欲求」が「何かを伝えたいが中々気持ちを言葉にして上手く表現できない」という体験を減らし、「読書をしない」人達を増やした。

しかし、読書をせずとも「自分の言葉で伝えたい」という人間の根源的欲求自体はなくならないからSNS等に中身のない文章を書く。

本来ならここで「読書をしない」ことが能力の低さに繋がり、「馬鹿の山」から「絶望の谷」に落とされて中身のない文章と書き手は淘汰されるはずが「損得の壁(評価経済社会+自己承認欲求)」によって逆に推奨されてしまった。

そのせいで自分の能力(語彙力・表現力・文章力・読解力等々)を自省する機会を失い、中身のない文章を書き続け、中身のない文章しか読めない人達に承認されることで根拠のない自信だけが「ダニング・クルーガー効果」によって増幅された結果、

「本を読まないくせに人並みに承認欲求だけは強いからいいね(スキ)をもらった程度で自分の鑑賞力を自省することなく己の能力を過信する頓馬」が増えた。というのが結論です。

また、もし、この記事を読んで不快に感じたならば、それはあなたの劣等感が刺激されている証拠なのでこの記事を読んだことを契機に一度、「馬鹿の山」から「絶望の谷」へ落ちる経験をして、自分の能力をもっと自省してから感想記事を書くべきですよ。

というのが、タイトルの意味になります。



最後に


ここまでの文章を読んで、「偉そうに何様のつもりだ!」と思った方がいると思います。

しかし、これだけは言いたい。

偉い、偉くないの話をするなら私は「馬鹿の山」に居座り続ける人よりも「絶望の谷」を経験した人のほうが偉いと思う。

なぜなら、作品を評価する場合「馬鹿の山」に居る方が関心を集めやすく、自己承認欲求も満たされて得なはずなのにそれでも「絶望の谷」に落ちる人は、損得勘定を抜きにして純粋にその作品を評価するという行為に向き合っている。

つまり、承認欲求を満たすために損得勘定で作品を評価する人はその作品やジャンルを愛しているのではなく、自己愛が強いだけ。

しかし、損得勘定を抜きにして作品を評価する人は自分ではなく、作品そのもの或いはそのジャンル自体を愛している。

どちらが、観客として偉いかは明白です。

あと、もう一つ言いたいことがあります。

「馬鹿の山」に居座って感想記事を書き続けているあなたへ。

あなたが、中身のない文章を書いてどれだけ関心(スキ)を集めたとしても私や「絶望の谷」に落ちた経験のある人は、あなたの記事を一切、評価しないし価値があるとも思わないし【鑑賞力が低いくせに自信だけはあるからプライドが邪魔して「馬鹿の山」から「絶望の谷」へ下りられない可哀そうな人なんだ】と常に冷ややかな目線であなたを憐れんでいます。

そのことは、どうかお忘れなきよう。お願いします。

以上。悔しかったらプロの批評や評論を読んでみればいい。

なぜ、私がこの記事を書いたのかが分かるはずです。

長文失礼しました。


































































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