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死後を考えるために生まれる前を考える ~当たり前過ぎて意識しなくなっていること
生まれる前と死後とは等価だと思っています。
生まれてきた赤ちゃんに
「生まれる前ってどうだった」
と忘れないうちに訊きたい程です。今回の宇宙に用意されている11次元のうち、今私達が現実的に扱える4次元で考えると
「何も記憶が無い」
というのが正解だと思うのですが。
そもそも赤ちゃんに訊く前に自分はどうだったか考えることが順当なのですよね。
私の場合、幼稚園の年長になる時に家を親が建て替えています。父の勤務していた会社の目黒の社宅に仮住まいしていて、建て替えの進捗を見に行ったりしていました。
建て替え前の古い平屋の家の記憶は比較的鮮明に有ります。幼稚園の入園式や年少のクラスの担任の荻窪先生(名前も覚えていた)や教室の様子、お弁当の匂いなどまで記憶しています。
幼稚園入園前の記憶。古い平屋の家の南面の長い廊下の端に父の学生時代から使っていた木製の机が有り、そこから床に板を立て掛けて滑り台として遊んた記憶も有ります。薪で沸かすお風呂や汲取式のトイレ、水道ではなくて貯めた水を垂らして手を洗うトタンでできた手洗い器も記憶しています。母が自転車で流している煙突掃除屋さんに不定期に煙突掃除を頼んて居た姿や、その掃除作業を興味深く観察した記憶も残っています。
道は砂利で、ご近所さんが植木を手入れした後に砂利道で焚火をし、定番の薩摩芋をもらい、灰を水溜りになってしまう道の凹みに撒いて姿も鮮明に記憶しています。
でもそこまで。
幼稚園に行く前の記憶までです。3歳程度かなぁ。どうしてもその前が思い出せない。まして生まれる前はからっきし。
まぁ、生物としての記憶力の発達相応の当たり前な結果。
残念。
しかし、楽しくも悲しくも苦しくもなかった。はず。
ノンレム睡眠の時と同じ。
ということで、毎日就寝後のノンレム睡眠と死後は等価というのが今のところの理解です。
当たり前過ぎ。