ハリポタで、イギ文する。【#2】メアリー・シェリー
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2024年もPotterhead全開な、黒木りりあです。
いよいよ先週の2024年1月14日より日本テレビ系列の金曜ロードショーにて4週連続の「魔法ワールド祭り」が始まりました!
テレビで多くの人と同時に作品を楽しむことができるこの機会、私も非常に楽しんでおります。
さて今回は、しばし間が空いておりました「ハリポタで、イギ文する。」の第2弾として、記事を更新させていただきます。どういう趣旨の企画かは、併せてこちらをご覧いただけますと幸いです。
第2弾となります今回、語らせていただくのはUKを代表する小説家の一人である「メアリー・シェリー」です。彼女の代表作のひとつである『フランケンシュタイン』で著名な作家ですね。
彼女の作品でしばしば取り上げられる「錬金術」は「ハリー・ポッター」シリーズの「魔法」との関連があります。更に、メアリー・シェリーは映画「ハリー・ポッター」シリーズ及び関連施設である「ワーナーブラザース スタジオツアー」とも驚きの関連がありました。
「ハリー・ポッター」シリーズとメアリー・シェリーをどのように結びつけることができるのか、どのような結びつきがあるのか、私自身の視点と言葉で、綴らせていただきます。温かい目で最後までお付き合いいただけますと幸いです。
愛と光の子、メアリー・シェリー
まずはメアリー・シェリーとはどのような人物だったのか、そして「ハリー・ポッター」シリーズと彼女自身にはどのような関連があるのかについて、簡単に紹介します。
メアリー・シェリーとは?
メアリー・シェリー(Mary Wollstonecraft Godwin Shelley 1797-1851)は、イギリスの小説家です。彼女の代表作は、ゴシック小説『フランケンシュタイン』("Frankenstein: or The Modern Prometheus", 1818)。この作品はしばしば「SF小説の祖」と称されることが多く、後世における様々な作品に多大なる影響を与えています。その影響から、メアリー・シェリー自身も「SFの先駆者」や「SFの創始者」と呼ばれることがあります。
彼女自身ももちろん非常に才能がある著名人ですが、彼女の周囲の人物もまた著名人が多くそろっていました。彼女の母親は、社会思想家でフェミニズムの創始者や先駆者と呼ばれる、メアリー・ウルストンクラフト(Mary Wollstonecraft 1759-1797)、そして父親は無神論者でアナキズムの先駆者と呼ばれる、政治評論家のウィリアム・ゴドウィン(William Godwin 1756-1836)でした。更に、夫はロマン派の著名な詩人であるパーシー・ビッシュ・シェリー(Percy Bysshe Shelley 1792-1822)で、19世紀最大の詩人であるジョージ・ゴードン・バイロン(George Gordon Byron 1788-1824)やフィクションにおける吸血鬼というジャンルを生み出したともいわれる医師のジョン・ウィリアム・ポリドリ(John William Polidori 1795-1821)とも親交がありました。
長年にわたって、『フランケンシュタイン』執筆と、彼女の夫であるパーシーの作品出版への尽力がメアリー・シェリーの功績だと考えられる傾向が続いていました。しかし、彼女は1818年の『フランケンシュタイン』出版以降もコンスタントに執筆活動を継続していました。執筆作品は長編作品だけでなく、短編作品、詩、旅行記、子供向け作品、記事、伝記本など非常に多岐にわたっていました。近年では、こういった『フランケンシュタイン』以外のメアリー・シェリーの作品に目を向ける傾向が増しています。
1822年のパーシーの死後、彼女はイングランドで執筆活動を続ける傍ら子供の養育に精を出しましたが、40代になると病に悩まされ、1851年に脳腫瘍が原因で息を引き取りました。
波乱万丈なメアリーの生涯
メアリー・シェリーは誕生してから11日後、母親を産褥熱で失いました。そのため、基本的には父親であるウィリアム・ゴドウィンの手で育てられました。しかし、彼女が4歳の頃に父親は近所に住んでいたメアリー・ジェーン(Mary Jane Godwin 1768-1841)と再婚。父の再婚相手とそりの合わなかったメアリー・シェリーは実母でありメアリー・ウルストンクラフトの墓で多くの時間を過ごし、彼女の著作物を読んで母の思想に触れていたといいます。
メアリー・シェリーが17歳前後の頃、彼女はパーシー・ビッシュ・シェリーと出会います。パーシーはゴドウィンのファンで、ゴドウィンに会うために彼女の自宅を度々訪れていたことがきっかけとなりました。しかしながら、当時のパーシーは既婚者であり、二人の恋路は容易なものではありませんでした。
パーシーとの仲を父親に反対されたメアリー・シェリーは、1814年、メアリー・ジェーンの連れ子で義理の妹にあたるクレア・クレモントを連れてパーシーと駆け落ちし、大陸へと向かいます。ヨーロッパ大陸を旅したのち、イングランドに帰国したメアリー・シェリーはパーシーとの子供を身ごもっていました。しかし、生活はなかなかに困窮していた上に、最初の子供が生後間もなく天に召されるなど苦しい日々が続きます。
1816年、メアリー・シェリーはパーシーとクレアと共に、スイスのジュネーヴでひと夏を過ごしました。この滞在にはバイロン卿と彼のお抱え医師であるポリドリも共におり、この滞在経験がきっかけとなり、『フランケンシュタイン』の執筆に至ったといわれています。俗にいう、「ディオダティ荘の怪奇談義」です。
その後、イングランドにメアリー・シェリーたちは帰国。その年の年末、パーシーの妻であったハリエットが恋人との関係不和を苦に投身自殺しました。これを受けて、ついにメアリー・シェリーとパーシーは正式に結婚しました。
1818年に入ってすぐ、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』第1版が匿名で出版されました。出版当初、この作品はパーシーが作者なのではないか、と言われていました。その年、メアリー・シェリーはパーシーやクレアと共にイタリアへと旅立ちます。イタリアの文化や芸術を楽しみながらも執筆活動も止めなかったメアリー・シェリーでしたが、このイタリア滞在中に子供を2人失ってしまったことで悲嘆の日々を送ることとなります。夫のパーシーは自由恋愛主義であり、イタリア滞在中もクレアを含めた複数の女性と関係を持っており、夫婦仲はすこぶる良好とは言えませんでした。メアリーの希望となっていたのは、1819年に出産した第4子となるパーシー・フローレンス・シェリーの存在でした。
1822年の夏、パーシー・シェリーは特注した帆船エアリエル号に乗ってイタリアの海上を楽しんでいたところ、突然のあら死に見舞われて船が沈没。パーシーは帰らぬ人となりました。夫の死後、メアリー・シェリーは1年ほどイタリアに留まりましたが、その後はイングランドに帰ります。彼女は自身の筆でパーシー・フローレンスを育てることを決意したのです。実父やパーシーの親との確執に悩まされつつ、経済的に苦しい状況ながらも、彼女は作家そして編集者として忙しい日々を送りました。
1828年、メアリー・シェリーは天然痘に感染してしまいます。数週間で彼女の体調は回復しましたが、病の影響で美貌を失ってしまったといわれています。当時、彼女が最も気にしていたのは息子であるパーシー・フローレンスの体調でしたが、彼は順調に成長していきました。夫であるパーシーの希望に沿うような形で、パーシー・フローレンスはハーロウ校やケンブリッジ大学のトリニティカレッジといった名門校に進学しました。
1844年にパーシーの父が亡くなり、遺産を相続したことでメアリー・シェリーとパーシー・フローレンス母子は経済苦から脱します。そして1848年にはパーシー・フローレンスがジェーン・ギブソンと結婚。メアリーとジェーンは非常に仲が良かったといわれています。メアリー・シェリーは息子夫婦と同居しつつ、彼らと共に旅行に出かけるなどして過ごしていたといいます。
しかしながら、1839年ごろからメアリーを病魔が襲っていました。頭痛や発作的な身体麻痺に悩まされたメアリー・シェリーの病状は、時として執筆や読書すらも妨げるほどでした。そして1851年、彼女は息を引き取ります。当時の医師による見立ては脳腫瘍で、約10年にわたる彼女の体調不良の原因もこの脳腫瘍ではないかと考えられています。
メアリー・シェリーの生涯は母親の死から始まり、身近な人物の多くが不幸に見舞われ、死が多く影を落としていました。簡単に振り返ってみても、非常に波乱万丈な人生だったといえるでしょう。数多の不幸を経験しつつも、懸命に生き抜いた彼女の人生と、彼女が世に残した作品たちは後世に語り継がれ、今日でもなお大きな影響力を世界中に与え続けています。
魔法ワールドのメアリー・シェリー
実は、映画「ハリー・ポッター」シリーズとメアリー・シェリーには意外なつながりがあることをご存じですか?ここからは、そんな両者の接点について、簡単に述べていきます。
スタジオ・ツアーにメアリー・シェリー!?
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