それからの毎日は、どこかで彼のことを思い出しては日常をこなしていく毎日だった。どうしようもないのに彼のことを諦めたくなくて、諦めたくなくてもいないものはどうしようも無くて、ふと思い出して泣く夜もあれば心が落ち着いているときもあった。毎日1秒ごとに感情に振り回された。 約束の夏が過ぎた。また行こうねって言ったユニバも上書きした。彼のいない彼の実家にも何度もお邪魔させてもらって、実家に帰るたびに犬の散歩だと言って彼の通っていた高校の前まで行った。生きてた世界の少しでも感じたかっ
そこから先はあまり覚えていない。バイト先で出会った私たちは中学も高校も別々だった。お通夜とお葬式で私の知らない彼をたくさん知った。もしかしたら私は彼のことを何も知らなかったのかもしれないと思うと、なんだか私が泣くべきではないような気がして涙を流すことは無かった。ただ周りのすすり泣く声が聞こえてきて私だけが世界に取り残されていた。誰にも私の彼を奪われたく無かった。ただ呆然と、全てを見つめていた。 お葬式が終わった頃、彼の母親に彼の胸元にあったネックレスを渡された。 「持って
「来てくれてありがとう」 疲れ切った顔をした彼の母親が言った。若くて綺麗な彼の自慢の母親だった。彼にそっくりな顔をして、泣き腫らした視線を私に迎えてくれた。 横たわった彼の顔があまりにも綺麗で、寝てるかのようだった。彼の母親と、母親の啜り泣く声が聞こえてその声が私を現実に戻した。この人が目を開けて、声を発し笑いかけてくれることはもう無い。認めたく無かった。彼の母親がずっと彼の頭を撫でていた。 「触ってあげて欲しい」 触れなかった。怖かった。1週間前まで体温を感じれる距
7月13日。あの日の朝私の世界が真っ暗になった。 何が起こったかわからないまま母親に電話をかけた。寝ぼけながらも電話に出てくれた。 「お母さん。あいくん、死んじゃったって。」 「誰が?」 「あいくん。昨日の夜に、事故で。今お母さんから電話があって。」 朝日が隙間から入ってくる赤と白を基調としたお気に入りの一人暮らしの部屋。ほんの1週間前までここにいて、一緒に寝て、一緒に起きて、一緒に笑った。またね、ってお別れした。二度と声を聞くことはない。泣きながらメイクをした。涙
美容学校での生活は順調に進んでいた。私は不器用だけど容量は悪く無かった。最初はできないけれどコツを掴むのは早く、周りの平均よりも上手くできるようになるまでは時間はかからなかった。そう、”普通よりもできる人になるまでは” 人生で初めて”器用な人が努力する姿”を見た。私よりも何十倍も器用な子達は、努力した私よりも優れた成績を収めていた。私より何十倍も器用な子が、私よりも努力していた。朝の時間、夜の時間、バイトもすることなく全ての時間を美容に費やした。届かなかった。初めてのコンテ
美容学生がスタートして私はより一層美容というものに夢中になった。次々出される課題に対して、毎回新しいおもちゃを出されたかのように必死に取り組んだ。 私が進学した美容学校は西日本で一番規模のでかい美容学校で、美容学生最大のコンテスト、理美容甲子園の上位常連校だった。そもそも美容学校というものは美容師国家試験を取得するための場所であり、それ以上の教育は学校の特色による。授業と別に300時間の専門分野を学べて月に1回コンテストが開かれるような学校だった。普通の美容学生がやっている
2013年4月1日。私は大阪に出た。 18年間という時間を過ごした最後の1週間はずっと、毎日彼氏と過ごした。何故か当然のように1週間私の実家に泊まって家族と共にいた。これから遠距離恋愛が始まるからか、お互いの両親は何も言わず私たちを見守っていた。 3月31日、母親と二人で夜行バスに乗り込んだ。寂しさはほとんどなく、毎日が楽しみだった。 「4月1日、7か月記念日と遠距離恋愛のスタート!どうなるかわからないけれど、楽しんだものがちだと思う!」 当時流行っていたデコログの、
私たちの学校は、高校3年生になると個々の専門分野について1年間を通して研究して発表をする授業があった。ほぼ9割の生徒が専門学校か就職をする学校だったので、高3の冬は受験勉強に燃えてるのは本当に一部の層でみんな課題研究に追われていた。研究内容をパワーポイントでまとめて、研究した現物があれば出さなければならない。私は手作り化粧品で研究内容を作っていたが、保育、食品、被服、福祉、他の学科はロボット制作や農作物についてなど高校生にしてはかなりクオリティの高いものだった。 島根県益田
私は昔から比較的卒なく何事もこなせるタイプではあった。中学1年生でテニス部に入学してから運動神経が開花し、中学2年生から高校3年生まで体育測定はずっとA評価だった。テニス部では1番手にはなれなかったものの、2番手として部にいたし、駅伝の選手には選ばれ、4✖️100Mリレーも選手として走った。あの頃はすごく自由に、風を切って走って人を抜いていけた。中学の頃のテストの最高順位は学年5位だった。少なくとも地頭が悪いわけでは無かった。人並みになることは簡単だった。 1番にはなれない
そんな高校生活を送る上でも一緒に過ごしてくれる友人がいた。 グループを抜けてお昼ごはんを別々で食べるようになっても、高校生活のほとんどを一緒に過ごした友人がいた。一緒にバイトをしたり、大阪に行ったり、ライブに行ったりした。体育の授業は卓球を選択して、ラケットを握り締めて2人でずっと語り合った。ロードレースは100位と101位を目指そうとして最後に2人に抜かされたら達成だと言いながら102位と103位になった。人当たりの良い彼女のことを嫌いな人はいなかった。先輩からも後輩から
友人はすぐにカメラ屋さんを辞めた。その後は居酒屋で働き始めた。居酒屋の社員と付き合い始めた。その人と付き合うまでいろんな人と付き合ってたけれどもれなく全員クズ野郎だった。居酒屋の店員さんはバツ1で子持ち、29歳だった。 「できてもいいって言ってくれてるんだよね。それが嬉しくて。」 馬鹿だと思った。友人は妊娠した。29歳の社員さんと結婚した。私たちは16歳だった。 生まれる日、高校が終わって母親と二人で病院に行った。産まれたての子供を見ながら、疲れ切った顔の友人が出てきた
高校生になって、グループに所属してみたりもした。1学科35人程度の学科が4学科ある学校だった。そのうちの1学科。35人あまりの中の小さな世界。クラスの中でも割と華やかな子たちに囲まれた。中学の時の私が欲しかったものだった。一緒に過ごしてはいたけれど、どこかウマが合わなかった。自然とお昼ご飯を食べるメンバーが変わった。グループを離れた。「大人数」だとか「いつメン」というものに憧れていたけど、馴染み方がわからなかった。1人でいいや。諦めた。休み時間、寝てるかのように机に伏せながら
高校生の頃、私はあれを愛と呼ばずに何を愛と呼ぶんだろう、という恋をした。 彼氏なんかもできたりするのかな、と浮き足立ってた時もあった。私みたいなブスに恋人ができたりするわけない、と思ってた時もあった。高校2年生の頃に仲良くしてくれた先輩を好きになった。RADWIMPSの「ふたりごと」の歌詞みたいに”同じところにあいてるピアス”なんかにドキドキしてた。「先輩後輩ってより友達みたいな存在」って振られた。こんな私だけどもいいなと思って連絡先を聞いてくれる人もいた。 そうして私が
そうやって作り上げられていった壁は自分の最大の武器を身につけたかのように思えた。 高校3年生になった頃、美容学校のAO入試を受けた。はやめに受けたら夏休みに内定者実習に行ける。美容師になりたくてなりたくて高校生という時間をずっと足踏みしていた私は、早々にAO内定が欲しくて先生に打診した。 認められなかった高校生活だったけれど、中学2年生の頃から志していた美容師という夢に対してはずっとひたむきに向き合い続けていた。美容師は夢であり、美容は私の武器だったからずっとそばにあった
そうして始まった私の高校生活は自分を構築する上でもがき苦しむ生活だった。 コンプレックスの外見をメイクで誤魔化した。腫れぼったい瞼に無理矢理アイプチをして、つけまつげをつけた。上手くはなかった。可愛くなれたわけでもなかった。でも学年の中でも”派手な子”の印象はついた。頭の片隅で中学からの友人を思い浮かべた。そうなりたかった。 何度も呼び出された。いつしか先生の引き出しの中には私専用のメイク落としが用意されていた。全体集会では先生に腕を引かれて追い出された。先生のポケットの
時間は戻るが高校に入学して私はどこかで新しい自分になれると思っていた。 中学生の時仲良くしていた友達は俗に言うスクールカーストの頂点にいるような子たちだった。 学生の頃の学校での序列というのはとても残酷なもので、顔面が全てを言うように思う。大人のようにメイクで繕ってみたり、整形なんかはもっての外。生まれたままの自分で戦わなければならない。 外見が整っているだけで一目置かれる。全てが許される。子供は残酷にも正直だ。たかが15歳の少年少女に恵まれなかった外見の代わりに見繕う