高校生 10


私は昔から比較的卒なく何事もこなせるタイプではあった。中学1年生でテニス部に入学してから運動神経が開花し、中学2年生から高校3年生まで体育測定はずっとA評価だった。テニス部では1番手にはなれなかったものの、2番手として部にいたし、駅伝の選手には選ばれ、4✖️100Mリレーも選手として走った。あの頃はすごく自由に、風を切って走って人を抜いていけた。中学の頃のテストの最高順位は学年5位だった。少なくとも地頭が悪いわけでは無かった。人並みになることは簡単だった。

1番にはなれないけれど、苦労をしたことはあまりないくらいには器用だったんだと思う。1番にならなくていいのであれば苦労をしなくてもいいくらいのポテンシャルは存在していた。でも私は負けず嫌いだった。1番が欲しかった。テニスも、陸上も、小5から始めたダンスも、勉強も、何一つとして1番になれなかった。ましてや誰かの1番になることも叶わなかった。何かが欲しくて頑張ってきたけれど、何も努力しても届かなかった。

またしても”持っていなかった”。でもルックス以外の全てが平均よリも少しだけ上だった。故に私は、この広くて狭い田舎町を出たら私は天下を取れるんじゃないかと信じていた。まだ見ぬ大阪での生活にウキウキしていた。その術も現実も何も知らないのに。

介護の授業を選択していたのは私を含めて4人。そのうちの3人は福祉の道を志していた。学校には介護棟なるものがあり、授業中は4人で棟を貸切だった。先生は歳はそこそこ、スマートで穏やかな男の先生だった。無駄なことを喋らないところや、文化祭に福祉メンバーで縁日をやろうとノリノリなところが割と好きだった。「介護士を目指す2人はそこそこ、社会福祉士の方が稼げるね。一番稼げないので言えば、、、でも美容師はまあ、、、カリスマになれば桁違いに稼げる可能性はあるね」ある日の授業中に言われた。

悔しかった。けれど、恥ずかしながら私は”お金”についてまともに考えたことが無かった。生活には、生きていくには、お金が必要だということを本当の意味でわかってはいなかった。美容師が一般的に所得の低い職業であることをその時初めて知ったのだ。それでも言葉で突きつけられても全くピンときていなかった。中学2年生で美容師を志してから夢を否定されたことも、反対されたことも一度もなかった。そしてお金で苦労をしたことが無かった。だから所得が低いというのはどう言うことか、検討もつかなかった。私は本当に恵まれていた。

福祉棟で学び合った彼や彼女らの現状は全く知らない。SNSが発達する世界で全く情報が入ってこないのだ。それでもきっと”所得”で言えばおそらくあの空間にいた誰よりも高いであろう。先生を含め。それが全てではないし比べるものでもない。ただ、それは現段階の話であって私は先生の言う通り底辺の貧困を味わった。

ここまで無知で、それでも私は天下を取れると思っていたのだ。生きていくと言うことを、私は知らなかった。箱の中にいたのだ。ずっと。






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