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お金をかけなくても。私の幸せとは

「お金があるから幸せ」というわけではないことに、ここ最近気がついている。もちろんお金があった方が選択肢は広がるし、良いに越したことはないのだが、「お金がある=幸せ」というわけでもないんだろうなぁと思っている。


先月、雪が少し積もった日曜日のこと。
晴れていたので、家族四人で散歩に出かけた。散歩と言っても、行く先はわずか5分で行ける、「息子が通う小学校」。
3歳の娘の散歩先にちょうどなのだ。(行きは自分の足で歩くくせに、帰りは”帰りたくない~まだ遊ぶ~!”と暴れるので、必然的に抱っこになる)

寒くないようにジャンパーを着て、みんなで歩き出す。
風は少し寒いけど、お日様が出ているので日差しが暖かい。
すーっと深呼吸をしたくなる。

私は娘の手を繋いで、夫は早足で進む息子を追いかけて。
手を繋いだ娘がちらっと私の方を見る。にっこり笑顔で笑いかけてくれる。
あぁ、幸せだなぁと思う。

小学校に着くと、息子が「凍っとるよ!!」と運動場ではしゃいでいる。
大きな水たまりができていて、そこが凍っているのだ。

バリバリバリ…
息子がその氷の上を踏み鳴らす。
「わぁ!めっちゃ面白い!」と次々と別の水たまりに足を延ばす。
それを見て、娘も「みーちゃんもやる!」と私の手を放して、一人で歩き始めた。

バリバリバリ…
二人そろって氷の上に乗り、割れる氷の音を聞いて楽しんでいる。
私も夫もつられて氷の上に。
みんなで、「バリバリバリ…」を楽しんだ。

その後、「こっちはもっと固いぞ!」と夫が、校舎の陰になっているところに息子を誘い出した。
確かにこっちの氷は、踏んでも割れない。
「スケートしよう!」と言って、息子がすーっと滑り始める。
「お母さんもおいでよ!」と誘われたが、断った。
滑って転んだ経験があるのだ。

娘は怖いもの知らずなので、息子の元へ行った。
「みーちゃんは危ないから、ちゃんと見とってね!私は怖いし寒いから、あっちに戻る―」と言って、夫に頼んだ。
しばらく三人して、すーっと滑っていた。


この後、中庭の方に行って…と話しは続くのだが、この本当に「なんてことない散歩」が私にはとてもとても幸せな時間だった。

時間にして1時間くらいだろうか。
5分で行ける小学校で1時間過ごす親子。なんだろ、って思うかもしれないけれど、今の私にはこれが最高に楽しい時間なのだ。

テーマパークに行くわけでもない、大きな公園に行くわけでもない…それでも、子どもたちも親も、こんなに楽しめるのだ。
”安上がり”と言えばそうかもしれないが、これが今のわが家の身の丈に合った「休日のすごし方」なのだ。

お金を一銭もかけずに、こんなに幸せでこんなに満ち足りた時間を過ごせる。今でも私は、あの日のことを思い出すと、心が温かくなる。


3年ほど前のこと、友人が家族で温泉に旅行に行ったと聞いて、「いいなぁ!私らも!」と思って旅行を計画した。けれど当日、息子の風邪が私や夫にもうつり、万全な状態ではない旅行になってしまった。(当日キャンセルは痛いし、楽しみにしていたので無理に決行した結果)

予約した旅館は”大人はゆっくりできる”場所だったが、息子には退屈だったようで、「暇や暇や!つまらん!」とずーっと文句を言っていた。

この時は「そんなものか」と思っていたのだが、今思えばあれは「私たちには合っていない」旅行だったのだろうと思う。
その後も、子どもたちを連れて旅行をしたが、「泊りの旅行は親が疲れる」と気づき、最近は日帰りで済ますようにしている。

とはいえ、息子は「どこかに泊まりたい」という願望があるので、それは同じ市内に住んでいる私の実家で叶えることにした。私の実家なら、近くに公園があったり、室内でも遊べたりするので、息子も暇にはならない。最近の楽しみは、近所の銭湯でお風呂に入ることだ。


「お金をかけたら、幸せ」というわけでもない。周りに流されて「これが幸せのステータスだ」と思ったものを、自分がやってみたところで、必ずしも「幸せ」じゃないのだろう。

どこにお金をかけることが自分の幸せなのか?まずはそこがわからないことには、どれだけお金をかけたって幸せになれない。
今までの私は、「お金を使う」こともどこか他人軸だったのだろうと思う。
自分軸で「自分が幸せになるためには、自分が幸せと思うお金の使い方」をしなければ、意味が無いと気づいた。
そして、必ずしもすべてのことに「お金をかけなくても」幸せな時間は過ごせるのだ、と気づいた。

時間のすごし方しかり、ものを持つこともしかり。
ものを持つことについても、最近思うことがあるので、そちらについてもまた書きたいと思う。


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