「生きていれば何とかなる」というよりも、「何とかなったから生きている」
このところ、「人に恵まれている」と感じる出来事が多い。困っているときには、これほどまで親身になってくれる人がいるのか、ともはや驚嘆している。
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大人に助けてもらった、という経験がそれほど多くない。不遜を承知で言えば、「俺を助けられるような大人」に出会ってこなかった。
基本的に教室という環境に馴染めていなかったが、騙し騙し過ごしていた。かといってそれを、大人に相談することもしなかった。
少なくとも中高の先生方は、自分の目から見て「底が知れていた」。意気揚々、厚顔無恥に持論を展開するくせに、言っていることは容易に矛盾する。
矛盾しているのに、教師という権力を振りかざすことで、"無自覚に"自分を正当化する。
あなた方の権力は構造的に与えられたものであって、そのほとんどが自分の能力によるものではないのに。
自分に力があるように錯覚して、力強く言葉を遣う。その非論理的な正当化のプロセスに全く自覚的でない。(ように当時の自分には見えていた)
そうした「浅はか(に見えていた)」な大人に対して「頼る」ということを選択できなかった。
当時の自分には、「頼る」という選択肢がそもそも存在しなかった。「頼っても無駄」だと判断する以前の段階で、「頼る」ことが意識にものぼらないレベルで、頼ることを諦めていた。
そして、そうした潜在意識が態度に出ていたのだろうか。「大人」にはあまり好かれなかった。
高校の時の部活の同窓会が、大学を卒業するタイミングで行われた。その席で、顧問に大学院に進学すると告げたときの返答は「お前は、カシコになるんやな、俺には分からんけど」だった。
そうか、自分には理解し得ないものを容易に切り離すのか。ここに至る過程を想像もせずただ、「自分とは別の世界の人間」として扱うのか。
高校生の自分が、幻滅していたことを改めて思い出した。大人に頼れなかった。
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こうした青春を送ってきたから、「大人に助けてもらう」という経験があまりなかった。ありがたいことに、助けてくれようとする人は、何人かいたけれど、大人を信用していなかった。
そもそも、その助けが自分には適切でない場合も多かった。自分のことを「正しく治そう」としてくる人がほとんどだった。自分は「治りたい」だなんて思ってないのに。(結果、「正しく治らなきゃならない」を積み上げた)
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ところがどうだ、最近は、どうした。もう今のこの状況は、「人に救われている」以外の何物でもない。先生はサポートしてくれるし、内定先も想像を超えて手厚くサポートしてくれる。
ほう、これが「人に頼る」というやつか。なるほど、、、なるほど〜。頼るってこういうことか、、、多少道を踏み外しても、誰かが手を握ってくれるのか、、、ほえ、、、まじかよ、、、すご、、、え、なに、、ちょっと怖い、、けど、すご、、、
え、みんな、、こんな心強い支えを胸にこれまで生きてたの、、?いいな、、、そりゃ、、「人に頼ってもいい」って、純粋無垢に思えてる人は、強いよ、、、。ずるい。ずるい。ずるい。
人に頼れない不安なんて、、、想像もつかないよな、、、不公平だぁ、、。でも、もう「頼った側」に自分も回っちゃったな、、、。
これはもう、生存者バイアス以外の何物でもない。「生きていれば何とかなる」んじゃなくて、「何とかなったから生きている」
「死んだら何とかならない」よりも、「何とかならなかったから死んだ」んだと思う。
死者に口無し。「何とかならなかった」人の声は、社会には届かない。「何とかなった」美談だけが、コカコーラみたいに世界中を駆け巡る。
もう自分は「何とかなった」側に、暫定的にだけど、入ってしまった。この幸運をただの幸運だと意識して、振りかざさないでいたい。
何とかなった自分は、数多くの屍を踏み越えて今を生きている。多数派の論理に貢献することになって、心苦しさを感じるけれど、「人に頼れない」気持ちをちゃんと分かっていたい。
最後までありがとうございました。ゆるく生きていきましょう。