いつまでも忘れられないのは、それだけ深く傷ついたということで、必要なのは忘れようとする努力よりも、傷の手当てをしながら治癒をじっくり待つこと。
二十代半ばにしてようやく「休む」ということを覚えました。くたばる、ではなく。
自分のできなさに打ちひしがれたことがある人がいいな。いま打ちひしがれているならなおいいな。 笑顔に疲れた人がいい。笑顔でいる自分が嫌いになったことがある人がいい。 悪態で笑える人がいい。悪態で笑ってる自分の偏りに気づいてる人がいい。悪口言ってる自分に酔わない人がいい。 JKの制服コスプレしてテーマパーク行ってる女を見て「みんなと同じことに、同じくらい、同じように悩んで、“私だけなんで辛いんだろう?”とか思ってんだろうなー」みたいな感想を抱く人がいい。 「私は性格が悪い
立ち止まったときに大切なのは、やりすごすことだよ。悩むことじゃなくてさ。
弱くなったというよりは強がってただけなのかもね
「いま苦しいと感じている」ことを認めるところから始まるものがある。理由なんていらない。苦しいのは、苦しいからだ。
日々に少しずつでもときめきを見つけていかないと
久しぶりに涙までの距離が近い日々を過ごしてる。特に悲しいこともないのにね。
それどころやあらへん
光るだけが全てならばこの世界はあまりに暗いのに
結婚がめでたいという感覚がよくわかんない。
「自分なんて」が自分の生きる通底理論で、「気にかけて欲しい、なんておこがましい」と思ってしまうのはとてもとても当たり前のこと。 自分が他人の時間と労力を使うことを自分にあまり許せない。そんな人間じゃない。俺みたいな瑣末な有象無象に他者の人生に関わる権利などないのだ。 「卑屈だなあ」と他人事のようにも眺められるのに、いざ人と関わるとなると、「自分みたいな虫ケラが」とか平気で思い浮かぶんだから不思議なもんだ。 自己評価が低くて、他者との関わりが億劫で、あんまり相手に共感でき
ADHDの診断が下りたっぽいです。
もうとても疲れてしまったので、許してください。
人生でとにかく「客観的だよね」、「落ち着いてるよね」と言われてきた。加えて、「大人だね」とも。 でもそれを言われるたび、よく分かんないな、とも感じていた。 それはよくよく考えると、「客観的である」ことが、良いことだと言えるのがなぜだか分からないからだった。 ものの見方として、主観的から客観的までのグラデーションがあって、それぞれの人でグラデーションのどこの位置でものを見るかが変わるのはわかる。 「客観的だね」を褒め言葉として言ってくれてるみたいだけど、「客観的だ」と指
自分の欠点を見つめることだけが努力じゃないよ。やりたいことや得意なことを積み重ねるのだって大切な努力だよ。心地よさは良い生活の根拠だよ。