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出会うべきときに出会う


出会うべき時に出会うべきもの・ひとに出会うのだと、最近感じている。何度もそう思うことがあった。

勿論、もがいたり、探し続けたり、挑戦したり、は必要というか、そうしている時間も出会うべきものに出会うまでの過程として、それも含めて、必要なことなのだろう。

何も引っかからない、誰にも見つけてもらえない、こんなに手をあげていても、アンテナを張り巡らして、レーダーのボタンを押しっぱなしで、くまなく探していても、見つからない時は見つからないのだ。

でも、それを続けて、ふとした瞬間に、出会う。

ここ一年くらい、うっすらと、本を探してた。

ちゃんとは探していなかったが、本屋に置かれてる本を眺め、今の私の考えを叩き割ってくれるようなものを探してはいた。

読みたい本がない。

その現状に、これまたうっすらとやきもきしながら、本当に欲してるもの以外は全て間に合わせのように感じ、購入するまでにはならなかった。

そんな折に「百花」に出会った。
存在は把握していたが、自分から本屋で探し出して買う、という思考までは至らなかった。

苦しい十月を過ごし、やっと解放された私に、待ってましたかのように、「百花」はいた。

全ての私の選択の重なりの先に「百花」はいた。

「百花」は、十月の私と重なることがあまりに多く、この本に出会うタイミングはきっと今だったのだろうと思った。

そう思うと、苦しさから放してしまったことも、逃げたことも、考えを改めたことも、後悔したあのことも、修復できるかわからないがベストを尽くしたことも、それでも切れてしまった縁も必然であったのだと、全てはタイミングの重なりだったと思わずにはいられなくなった。

そんな折に、「傲慢と善良」に出会った。

本当は「菜食主義者」を買うつもりで本屋に入った。
が、前情報を全く入れず、友人に薦められたからという理由で買おうとしていた。ノーベル文学賞なら文庫本はあるだろう。と、たかを括っていた。残念ながら、文庫本サイズがなく、ピクニックで持ち運ぶには大きかったため、目に入った「辻村深月」のまだ読んだことない文庫本をこの際、と思い、手に取った。

手に取るまでの時間は数分もなかった。

結局ピクニックでは読めず、帰宅して読み耽った。
その時の私にはあまりに酷な内容だった。
酷ではあったが、自分でも意識の外の外くらいで考えてたようなこと、まだ考えるまでにもなっていない思考のかけらのようなことを、抉るような鋭さを伴った言葉として綴られていた。

私が苦手とすることを明確に指摘され、逃げ場がなく、受け止めるしかなかった。

周囲は優しい、甘い言葉しかかけない。
そんなに苦しかったのなら、逃げていいんだよ、貴方が一番大事。そうことばをかける。

そう大切に大切にされてきた。

それが傲慢に繋がるなんて思いもしなかった。
言葉を、相手と会話をしようとしなかったことが傲慢になりうるとは。

初めて本に抉られた。
抉られる本なんて初めてだ。
読了後、ここでもまた、この本を手に取ったタイミングも今であったのだろうと思うと同時に、今であってよかったと思った。また思考が飛び、よかったと思いつつ、これも自分が選択して掴んだタイミングであるのだと。

「出会うべくして出会う」ということを、これからの人生で忘れないようにしたい。

自分より能力がある人間と関わるときに、卑下してしまったり、自信を失ってしまうことがある。

けれども、今回の経験、新しい知見から、出会うべくして出会っているのだから、何も自分を落とす考えなんてしなくていいのだ。


「出会うべくしてその時に出会う」のだから、思いっきり、無様になっても、体当たりして、粉々になって生きろ。


以上

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