見出し画像

雑感記録(297)

【お前の眼はどこにある】


梅雨がそろそろやって来る。僕は自宅にテレビが無いのでいつ「梅雨入り」するのか全く以て知らない。梅雨だろうが何だろうが、雨が降ることに変化はない。ただそれが持続して降るか降らないか。それだけのような気がしている。雨が降ったら傘をさすでしょう。「梅雨だから傘はささない」という選択肢があるかもしれないが、それが「梅雨」に起因するのか、はたまたその人の感性の問題で「俺は雨だからって傘はささないぜ」ということもあるかもしれない。

僕はこの時期が嫌いだ。

大きく理由は2つある。1つは低気圧による体調不良の継続。そしてもう1つは、これは都市特有の悩みだ。傘をさして街を歩きたくない。主に僕の中でこの2つの事柄によって嫌いである。梅雨そのものに恨みはないし、恨みを持ったところでそもそも人間がどうすることのできないレヴェル感の話である。だが、そのせいで発生するおまけみたいなもので苦しめられる。これには困ったものである。

明日から雨になるらしい。僕はYahoo!の天気予報アプリをスマホに入れている訳だが、中々優秀で「あと数分したら雨が降ります」みたいな予報をしてくれ、確かに若干のずれはあるにしろ、Yahoo!が指定した時間通りに雨が降り始める。天気予報という手法を編み出した昔の科学者には頭が上がらないものである。

明日の電車は最悪だろう。


低気圧に弱い人間はある一定数存在する。僕は幸か不幸か、ゴリゴリに低気圧に弱い人間である。今、こうして「低気圧に弱い」と書いたが、そもそも低気圧に対する人間の強弱なんて存在するのか。そもそも低気圧って大気の、それも人間がどうすることの出来ない自然事象である。それに対して「強弱」を付ける方がおかしい。「低気圧に対して人間はみな弱い」と書く方がもしかしたら正解なのかもしれないし、健全なのかもしれない。

僕の場合は不眠症と頭痛に悩まされる。

この低気圧が難しいところは、誰の眼にも捉えられないような様相を以て人間に襲い掛かってくることである。例えば風邪をひくと、熱という1つの指標がありそこで「貴方の体温は38度ね。」と数値で図られる。そして可視化されることで「自分は病気である」ということを再度改めて認識することが出来る。ところが、低気圧は別に対外的に「分かる」(と書きたくはない訳だが…)ようにはなっていない。全て自己の内部で完結してしまう。

つまり、ここでいくら僕が「いや、低気圧に弱くて。頭痛とか不眠症なんです。」と書いたところで、それが説得力を持っているかどうかは別だ。説得力など持たせる必要など微塵もないのだろうけれども…。そのぐらい言葉というものは不確かなものであり、存在を定立させる確固たる根拠にはなりえないということが何となくだが感じられる。

しかし、社会に出るととにかく可視化されていなければならない。見えないものは「ダメ」と断定される。一時期、会社を休むのに写真で体温計を撮影し上司に送って「この人は本当に熱があるんだ」ということを示さねばならないというTwitterの投稿だったか、何だったか忘れてしまったが、物議を醸したことがあったことを思い出す。

僕は個人的にいつも感じることだが、どうして「可視化」することが1つの特権的な行為になっているかがよく分からない。僕等の思考はそもそも可視化出来ない訳で、言葉に出来ない物を日々抱えながら生きている。これは昨日の武田砂鉄に触発されて珍しくアツく書いてしまった記録そのもののような気がするので、ここで書くことを辞めようと思う。

いずれにしろ、僕は何でもかんでも可視化する動きというのは怖いなと思う。余白をどんどんなくしていくような社会な気がしてならない。とヘンテコな纏め方をしてみる。


さて、長ったらしい前置きはここまでにして。

僕が書きたかったのは、低気圧の話よりも傘の方である。いや、傘の話も何だけれども、1番書きたいことは別にある。じゃあ、そんな前置きしないでさっさと書きたい話を書けよ!という話なのだが、そこはご愛敬である。というよりも、遠回りしてしまうのだから仕方がない。散歩でも何でも僕は遠回りしたがる性なのだから仕方がない。過去の記録を参照されたい。

というよりも、書いていたら自然に話というものは飛び火して行ってあらぬ方向へ行くから面白いのではないか。最近本当にそれを感じる。会議に出る時にしても、こうして文章を書くに際しても思う。どこへ行くかが分からないから愉しいのであって、最初から終着地点が決まったうえでそこに向かうのなんてチープなB級映画みたいだ。シミュラークルみたいな網の目状の空間で偶発的なものこそが面白いんじゃないか。最初っから分かっている物事ほど詰まらないものはないだろう。だったらやらない方が疲れずに済む。

それで、何の話だったか…。

あ、そうそう傘の話…ではない。ではないのだが、「傘の話」と言葉で残してしまっているのだから、説明の義務がある。と書いたが果たして本当に義務はあるのだろうか。「義務」という言葉は嫌いだ。言葉というものが既にある種の制約が存在している訳で、その上に更に言葉に対して「義務」を行使するのは健全ではない。義務感で書いた言葉も詰まらない。書かされている言葉と書いている言葉はやはり異なる。僕は契約書面の文章が嫌いだ。

銀行員時代によく「銀行取引約定書」をやたらと読み込んだ。あの文章と言うのはどうも苦手である。A3用紙にビッチリと言葉が敷き詰められ、第○条、第○条、第○項…と文字数ばかりが稼がれている。それに書いてある文章は判りにくいことこの上ない。いや、これは意味を捉えることが出来ないとかそういう意味では決してない。書いてあることの意味は当然に理解できる。だが、それは僕が銀行員側だったからであり、お客さんからしたら「何のこっちゃ」という話だったに違いない。

だから僕らが嚙み砕いて要点を説明するのだけれども、どうもこれは不親切な文章だよなと思いながら読んでいた。そうそう、僕はずっと「甲」「乙」に違和感しかなかった。この文字を見る瞬間にいつも中野重治の『甲乙丙丁』が頭に浮かぶ。それもそうだが、甲乙と聞いてまず浮かぶのが音楽に於ける高音と低音。そして漢詩の返り点である。個が記号に変わる瞬間というか、ドライな文章だと思いながら接していた訳だが…。

それで、傘の話に行こうと思う。


この時期は雨が降るから当然に傘をさすのだけれども、晴れの日にも日傘をさす人が東京では多い。昨日散歩している時に、日傘が僕の眼鏡にぶつかってムカついて「いてぇな、このクソが!」と自分でも驚くぐらいわりと大きな声ですれ違いざまに言っていた。いや、良くない良くない。

だが、冷静に考えて、僕の場合は眼鏡をしていたから良いけれども、眼鏡をしていなかったら完璧に眼に入っていた訳だ。別に大げさでも何でもなく、下手したら失明していた可能性だってある。「何を大げさな」と笑いたい日傘ユーザーは笑っていればいい。そしたら僕も歩きタバコしながら同じ目線で持ってやるから。そして「大したことないじゃん」と笑ってやるから。ま、絶対にやらないけどね。そのぐらい腹立たしかったっていうことを表現したかった。

別に日傘をさすことは良いんだよ。むしろさして欲しいぐらいだ。それで熱中症が防げるのならさすべきだ。だが、さすからにはきちっと周囲に注意を払えよとは思う。何でめちゃくちゃ日陰なのに傘さし続けてるのとか、そういうことを考えるのだけれども、単純に一々日陰に入る度に閉じて、また日が出るところになったら傘をさしてという行為そのものが煩わしいんだろう。だからたまに日陰の時は日傘を閉じて、日が出るところから日傘をさす人を見ると「すげえな」と思うし、尊敬する。

そして1番腹立たしいこと。これは傘をさしている、さしていないに関わらずなのだが…。傘をさしていながらやられると尚腹立たしいというのが「歩きスマホ」である。やっとここで今日のこの記録で書きたい要諦に辿り着くことが出来た。


僕は「歩きスマホ」+傘って本当に最悪な組み合わせだとつくづく思うのね。思うというか、そうなんです。組み合わせ本当に最悪。「歩きスマホ」でただでさえ前が見えないのに、傘で視界までふさがれて、一体何がしたいのと僕は思いながら見ている。腹立たしいことは、僕がすれ違うために避けているのに、そういう馬鹿どもは下しか見ていないから思いっきりぶつかってくる。「転んでしまえ」と心の中で祈っていることは内緒である。

別に僕は「歩きスマホ」を良い悪いの観点で語る気は更々ない。やりたければ勝手にやればいい。何なら僕だってするし。ただ、あまりにも周りが見えていなさすぎる。ダチョウかよって思うぐらいに視野狭窄。それはダチョウに失礼だ。アハハハ。本当に手元を見ている人ばかりが増えた。街中を歩けばそんな人たちばかりだ。恐ろしい世の中である。

「スマホの中に世界が詰まってるんですかね?」と聞きたくなる。

例えば、東京なんか歩いていると高層ビル群だったり色んな建物が屹立している。それがスマホの中に入っているんですかね。匂いは?雰囲気は?感覚は?そういったものもスマホに入っているんですかね。僕にはよく分からないけれども。分かりたくもないけれども。とこうして書いているが、一応僕もスマホの恩恵を受けていることは声を大にして言っておく。

問題はその使い方というか使いどころ?

スマホって元を正せば電話でしょう。原型としてはそもそもポケベルから始まって外で会話できるようにっていうのが始まりで、今のスマホって要らん機能ばっかりある訳じゃない。勿論それで便利になったことは当然ある、例えば、僕の散歩日記を読んでいればわかると思うけれども、スマホの地図。あのお陰で迷子になることは無くなったし、移動時間にゲームも出来るし、漫画も読める。本当に便利になったと思う。

しかし、便利になり過ぎたが故に、目の前に広がる当たり前から目を背けるようになってしまっている。そんな気がしてならない。全てはスマホの中に入っていると言わんばかりだ。


というよりもだ。ここまで延々と書いているけど、最終的に言いたいことは「邪魔。ムカつく。」というたったそれだけのことである。そしてこの時期は「歩きスマホ」+傘という史上最悪の組み合わせによって僕は毎日イライラしながら過ごさなければならないと思うと憂鬱である。少なくとも自分は気を付けるように心掛けたいところではある。他の人にこういった気持ちを抱かせないためにも。

まあ、こんなところでやいのやいの書いたところで、大概伝えたい人には読んで貰えないもんだ。経験上。仮に読んで貰ったとしても、人間嫌なことから目を逸らす生き物だから。これは僕だってそうだ。全部が全部受け入れられる訳じゃない。だが、時に受け入れることも大切だと、何を当たり前のこと言ってんだよと方々から言われそうだが敢えて書いておく。

今は可視化されないといけない世の中らしいから、こうやって当たり前のことでも書ておかないと分からないらしいので。

スマホというのは本当に怖くてね。これも何を今更なんだけれども、本を読まない以外の時って気が付いたらスマホが手にあるの。怖いよね。だから最近僕は仕事から帰ったら22:30までは電源切ってほかっとくようにしている。そうするとね、何か凄く楽なの。不思議なんだけれども。これも過去の記録で書いたけれども、何かを手放すって怖いけど楽なの。

平日はそんな感じでスマホをなるべく触らないようにして、休日は散歩に出てスマホを触らないようにすると、凄く楽だし、結構愉しいことってそこら辺に転がってるもんなんだなって思えるようになった。と僕の大嫌いな自己啓発本みたいな締め方をしてしまっていることが自分で気持ち悪い。それに甚だ寒々しい。段々と恥ずかしくなってくる。

とにかく!

これから嫌な時期が始まるなと思うと憂鬱であるという話さ。

よしなに。


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集