雑感記録(55)
【魂が震える作品との対面】
昨日、いつも懇意にしてくださる社長さんと一緒に佐倉市美術館へ行ってきた。行ってきた?いや違う。正確には「連れて行ってもらった」というのが正解だ。烏滸がましくも車を出していただいて、激しい雨の中運転までしていただいた。本当に感謝しかない。
今回見てきた展示はこちら。
これは社長さんと僕にとって共通して好きな作家であり、僕が銅版画というものに興味を持つ1つの大きなキッカケとなった作家および作品なのである。これは僕のInstagramでもかつての記録でも記しているのだが、色んな画集を眺めて見ても必ず清原啓子の作品に戻ってくる。そういった何と言うのだろうか言語化できない、言わば「魂が震える作品」が数多くあるのだ。今回の記録ではこの『没後35年 清原啓子銅版画展』を見てとにかく語りたい、書きたいと思ったため記す。
1.精緻の極地
展示室に入った瞬間から僕の魂は震えっぱなしであった。今まで画集でしか見ていなかった作品が目の前に数多く並べられ、しかも原版までも展示されている。これは得も言われぬ感覚とでも言うのだろうか、様々な感情が心の奥底から湧き上がってくる、高揚感…表現する言葉が出てこないのだがそれぐらい入った瞬間から良かったということだ。
社長さんが実は銅版画をかつて学んでいらっしゃったということもあり、特別解説付きで鑑賞することが出来た。僕は銅版画の技法は本当に知らず、「エッチング」「アクアチント」「メゾチント」という言葉がよく理解できなかったのだが、社長さんの解説のお陰もあってより面白い視点で見ることが出来た。
僕の浅い知識であれなんだが、銅版画は銅板をただ彫るというだけでなく、銅板を腐食させたり、刷った後で再度彫るなどの作業を繰り返すことによって陰翳の表現などが出来るらしい。これは実際に原版を見ることで理解できた。しかし、実際の版画を見てもどこにその技術が利用されているのか素人目には分からない。そこを社長さんの解説で補いながら鑑賞できたことは非常に勉強になったし、純粋に面白かった。
その中でも2人して共通した認識として持っていた感覚は「精緻である」ということであった。しかし、これは何というか一般的に考えて見ても分かる。画集で見てもその細かさは分かるのだが、本物をよく見るとよりその細かさ、精緻さというのがまざまざと見せつけられる。その証左か分からないが、美術館ではあまり貸出されないルーペの貸出があった。これは面白いし、ありがたいなと思った。
『海の男』という作品があるのだが、清原啓子の数ある作品の中で1番好きな作品である。これも言葉でどう表現してその良さを伝えればいいのか煩悶としながら今、この文章を綴っている訳なのだが…。その精緻さも勿論なのだが、『海の男』はある意味でシンプルな作品である、要はバランスが非常に良い作品であると思う。
これと似たような雰囲気を持つ作品の1つに『詩人クセノファセス』という作品がある。これも非常に好きな作品なのだが、画自体が割と縦型で美しい立ち姿なのだけど、個人的にバランス感が僕の中でバチンと来ない。……いや、もの凄く好きな作品なんだけれどもね!
少し話を脱線させよう。僕が好きな銅版画でギュスターヴ・ドレの『神曲』の挿絵がある。『神曲』あとは『旧約聖書』などでお馴染みの、あのギュスターヴ・ドレだ。多分、作品を見れば1発で分かると思うのだが、実は僕の銅版画に興味を持った端緒はダンテの『神曲』を読んだ際の挿絵に魅了されたことにある。
銅版画の何に僕が惹かれたかというと、この精緻さにある。そもそもだ、銅板などに彫っていき、それをすることで絵画以上に精緻な表現が出来るそのことに感動したということが1番自分の中で大きかった。
皆さんも恐らく小学生の頃あるいは中学生の頃に版画を体験したことがあるだろう。木版画だったりドライポイント(昔で言うところのガリ版?)だったり。その時に僕は「細かく彫れないことの困難さ」とでも言えばいいのか、そういったものに直面したのを体験としてよく記憶していた。この体験が根底にあり、銅版画の精緻さに惹かれたのかもしれない。
木版画では風間サチコの作品が好きなのだが、これは精緻さというよりも逆にその荒々しさからくるメッセージ性に惹かれて好きであり、何というか芸術の感性的な部分や作品の美しさというよりインパクトからくる好きなのだろうと今書いていて改めて思う。
さて話を戻そう。この僕の原体験、つまり実際に彫ること(厳密に言えば銅板に彫ることはしなかったけれども…)を経験したことによりその精緻さにものすごく惹かれるものがある。元々、絵画でも精緻な作品が好きであるというのがあるのだけれども、それでもこの清原啓子の作品程に精緻な作品を僕は今まで出会ったことがないのである。
2.展示の工夫
またこの展示で非常に良かったなと思う点は原版(彫られた銅板)が展示されていることにあった。紙に写し出された作品も非常に良いものなのだが、この原版があるのは非常に興味深かった。これは作品そのものに関連する、何だろう所謂技術の部分を見ることが出来たという点にある。
小説や絵画、あるいは写真でもいいのだけれども技術を感じることは結構難しい。その道の勉強なり感性というものを磨き続けなければその些細な技術ということには気が付かないという場合が多くあるように思う。僕の中では写真は正しくそれだなと思う。
しかし、版画は元々の彫られたもの、木版画であれば木であり銅版画なら銅板でそこに素人目で見ても分かる技術が集約されている。言わば技術の集積が確実に捉えられる点に面白さがある。
とここまで書いてみるが、それでも分からないことはある。社長さんの解説を聞く中で「銅板を腐食させて表現するんですよ」と仰っていた言葉自体では正直ピンとこなかったが実際の原版を見て「ここかなり腐食してますね」と教えて頂いた時に、素人目でも「おお、なるほど!」と認識することが出来た。
美術館へ向かう車中で社長さんがなぜ銅版画がお好きかということをお話してくださった。そこが個人的に凄く納得というか「確かに、銅版画しかない良さだな」と思ったところがあった。
「絵画は作品1つしか存在しなくて、コピーすることなどまず以て困難。だけれども原版があるということが1番大きいところで、この原版というのが唯一無二の物であってそれを自身で保有できるところに良さがある。また、何回も何回も刷ることで良さに変化が出てくる。色を付けたり、銅板の腐食時間を長くしたり、刷った後で彫りなおすことでまた新しい作品が生まれる。これって面白いですよね。」
印刷技術というと大層なものになってしまうが、何だっけベンヤミンの『複製技術時代の芸術』なんか連想されてしまいそうだが、まだ読めていないから何も出てこないのだけれども…。
僕が1番いいなと思ったのは1つの原版から同じものは生まれないというところだ。そういったところに魅力がある。これは実際の展示でも見られた。それは「試し刷り」が一緒に展示されていたことにある。これがまたね…ものすっごく良かった。
試し刷り1回目とか見ると精緻なところは変わらず凄いのだけれども、やはりインパクトがない。その荒々しさも魅力的なのだが、回数を重ねるごとに色が濃くなっていき物語が始まるような、あの高揚感。もし僕もあれぐらいに彫れる技術があったならば、興奮したこと間違いなしだろう。
過程を見せてくれたことは僕にとって嬉しいことこのうえない。少しばかり横道へ逸れるが僕は「過程の大切さ」ということを記録した覚えがあるのだけれども芸術でもそういったところを見せてくれるものはやはり愉しいものである。これも銅版画の魅力であると改めて思う。
3.言葉と作品
ちょうど写真の作品の横に上記詩が隣に掲載されていた。正直、詩単体で見ても結構美しさを感じるのだけれども作品と併せて見ることでより深みを増すのである。
清原啓子の作品そのものも好きなのだが、僕は詩に痺れることも多い。これは以前の記録でも書いたのだが、まあ製作ノートの面白さたるや…。
僕は画家であり詩人でもある人物と言ったらジャン・コクトーぐらいしか思いつかないのだけれども…。あとは画家とかじゃないのかもしれないけれど高村光太郎とか?かな?何というのかな、そういう人たちの詩ってある意味で完成されてる感があってそれはそれでいいんだけれども、清原啓子の場合は粗削り感とでも言えばいいのか、そういったものを感じる。そこが魅力でもある。
何より面白いのが、画を見ることでようやく完成する思考を感じられるのが非常に面白い。つまり、画と詩が絡み合うことで生まれる新たな作品が創出されるその知的愉しさがここにはある。
上記の詩で僕が1番好きな箇所は「ハイヒールが闊歩する」というこの1文である。これは異化作用的な感じがする。これまで「魔都」という幻想的な世界観の中で何処か捉えがたい抽象的な言葉の連なり、何かを捉えようとしている言葉の数々の中で唯一「ハイヒール」という現実的なそして、いきなり具体的な言葉が登場する。
この幻想世界からの跳躍。僕はここが堪らなく好きである。また、「既にあなたなど/必要ない」という箇所も個人的に響いている場所だ。あんまりこういうことを言いたくはないのだけれども、「ああ、自分のためにある言葉なんだな」と不覚にも思ってしまった。
言葉と作品。よく美術館の展示だとキャプションで作品の説明があり、そこで作品が大体こんなもんだと一定の理解が出来てしまう。それはそれでいいのかもしれないが、分かってしまうというのも作品を味わう上では弊害になることもある。
一応、僕も博物館の学芸員資格を持っているのでそういったところが気になってしまう。やはり長いキャプションというのは読むのも面倒だし、自身の思考性を阻害されてしまうということが往往にしてあると感じることがある。しかし、最低限の説明は必要であるため難しいところではあることも十分承知の上ではあるのだけれども…。
今回の展示で凄く良かったのは言葉が少なかったこと、とりわけ必要なところに適宜必要な分だけ言葉が散りばめられている所に感動した。この『魔都霧譚』の展示は本当に凄く良かった。
4.モチーフとしての自然・曲線・釘(直線)
清原啓子の作品を見てみると、みんな共通して自然が描かれ、曲線および釘が散見される。いや、自然や曲線は必ず描かれるのである。
先に断っておきたいのだが、曲線などは色々な作家が描くし作品には必ずあるものだと思われるのだけれども、意識的に描いているという意味において曲線が多く見受けられるということなのである。また、自然とりわけ植物の中で意識的に曲線が描かれているのだと僕は個人的に思われるのである。
初期の作品に於いてはものすごく意識的に曲線が描かれていると思われる。しかも大体、紙の下半分ぐらいにそれが集中している。下方に植物の曲線があり上方に行くと曲線もあるがどこかシステマティックな直線が現れる。個人的には凄く気になった箇所である。
また、直線も棒線での表現というよりも、釘というモチーフを使用して描かれる部分が多く人に刺さっていることが多い。勿論、刺さっていない作品もあるのだけれども、大抵は人物らしき対象に刺さっている。
僕は【時間について(殴書的覚書)】で自然の美しさを感じられなくなったら人間お終いだ的なことを記録した。
勿論、その美しさを描くこともその美しさや荘厳さを表現しているのだとは思うのだが、僕は芸術家がしている自然の捉え方というのは「自然をパッケージ化したい」という欲望からくるものであると考えている。
昔の画家は基本的にはそのスタンスだったんじゃないかなと思われて仕方がない。具体例を挙げるとすれば、手っ取り早いところで行けばクールベなんかそうなんじゃないかな?
しかし、こと清原啓子に至ってはどうも自然そのものに対してそれをパッケージ化しようとする試みではなく、あくまで副産物であるという認識が根底にあってそこが面白いなとも思うのである。
要は、自然も芸術の思考性に落とし込める、といった観念的な方向へ移行しているような気がしてならない。自身の思考性を彩るための、それを伝える補助手段としての自然であると感じたのである。
正直、自分の中でまだ固まっていないトピックなのでこの部分についてはまだ考える必要が大いにありそうである。テマティスムを拝借して考えてみようかなと考えている。そうすると結局のところ作家論になってしまいそうで怖いんだけれども…。久々に蓮實重彦の『夏目漱石論』を手始めに読んでみるとしよう。
5.最後に
ここまで清原啓子について思うことを記録してきた訳だが、まあ相も変わらず纏まりのない文章で。しかし、本当にいい展示だったと思う。
自分が好きな作品を生で見れる機会があるということは本当に嬉しいことこの上ない。
そうそう、清原啓子さんのお師匠さんが深沢幸雄さんという方でいらっしゃって、山梨出身の誇るべき銅版画家のお1人である。何かそこに僕は誠に勝手ながら縁を感じてしまった。
山梨県立美術館に清原啓子の作品が所蔵されているということを初めて知り、僕は「なんで山梨で展示しないんだろう」と若干の怒りを覚えた。こんな稀有な画家はいないと思うし、この素晴らしい作品を知ってほしいとも思う訳で…。
山梨県立美術館で深沢幸雄さんの展示か清原啓子の展示をぜひやってほしいと切に願って、ここでこの記録を閉じる。
よしなに。
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