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雑感記録(326)

【夜の戯言集6】


七月のうた

 あなたは云う
 怒って云う
 この世に永遠などないと云う
 けれどこの真夏
 そんなあなたの
 美しいうなじの
 おくれ毛のあたり
 私は見る
 小さな永遠な子供たちが
 陽光の中で
 たわむれているのを
 くずれおちたピラミッドの
 かたわらから
 かれらはあなたの肩に
 帰ってきたのだ

谷川俊太郎「七月の歌」『魂のいちばんおいしいところ』
(サンリオ 1990年)P.80,81

もうすぐ7月が終りを迎えようとしている。振返ってみると僕には怒涛の7月であって、様々なことが一気に巻き起こった月だったように思う。うねる海に身を任せて僕はざぶんざぶんと、あれよあれよと巻き込まれる。だが、そこにどこか居心地の良さを覚えていた。ふと、ネットミームが思い出される。

僕は腰が重い人間である。例えば「どこか旅行に行こう」と自分ではならないタイプである。なるべくなら遠くに行くことは避けたい。自身が動ける範囲でミニマムに動きたい人間である。これを自分自身でもどう表現していいのか、未だにしっくりくる言葉が無い。「面倒くさい」との一言で表現出来てしまうのだろうけれども、外出することは好きである。

それに誰かに誘われればどこにでも行くタイプである。だからこれは言ってしまえば、僕の弱さであることは紛れもない事実である。つまりは、自分で積極的に何かをしようという気概が、本当に好きな事にしか向かないということである。これも言ってしまえば「人任せ」という大いに僕の弱さがここには垣間見える訳である。

しかし、7月に入り、様々なことが起る中で自分の腰の重さが云々と言っていられる場合ではなくなった。そして何より「ああ、意外と波に乗るのは愉しいな」とすら思えてきている。少しづつだけれども、どこかで自分がゆっくりではあるものの変化しつつあるのではないかと、そう思えて仕方がない。この波を逃してはならないと僕はヒシヒシと感じている。


 見知らぬあなたに手紙を書くのは
 あなたのことを知りたいからではありません
 私のことを語りたいからでもありません
 言葉を無限色のクレヨンにして
 世界の姿をあなたと一緒に画きたいから

谷川俊太郎「無限色のクレヨン」『魂のいちばんおいしいところ』
(サンリオ 1990年)P.14,15

言葉を紡ぐことは難しい。最近そういうことをよく感じる。僕の場合は書く言葉と話す言葉にあまりにも乖離があるような気がしてならない。肝心な言葉を話そうとすると、僕は上手い具合に言葉が出てこない。「これを話そう」と決めていれば、頭や心の中で言葉を積み重ねて話すことは出来る。しかし、瞬発的な感情や思いをその場で言葉にするのは実は苦手である。いつもそういう自分に悶々としてしまう。

それは簡単な話で、言葉は言葉に釣られてしまうから、頓珍漢なことを言ってしまうのである。加えて僕は肝心な話をする場があまり得意ではないのかもしれない。それは恥ずかしさみたいな心持がどこかにあって、茶化してしまう癖がある。勿論、伝えるべきことはその場でしっかり伝えているが、話している自分がどうも居たたまれなくなってふざけてしまう。僕はそれで何度かやらかしたことがある。

真面目に語ることが僕は苦手なのかもしれない。

真面目な内容の事を話しているのだけれども、その場にユーモアを持ち込みたいという気持ちが少なくともある。ある意味でここが僕の弱い所でもある。真面目な話をしているのにふざけてしまう。そういう部分で僕自身はいつも苦しんでいる。本心で僕はぶつかっているのに、それを自分自身で潰してしまっているような、そんな気持ちが心の奥底にはいつもある。大切な人に思っていることを伝えようとするとき、僕は僕が怖い。

ビッグダディじゃないけれども「俺はこういう人間だ」と開き直るのも何だか僕は嫌だ。だったら僕は永遠に真面目な話が出来ない。伝えなければならない人に自分の気持ちを伝えられないなんて嫌だ。だから僕は開き直りたくはない。今の僕はそういう狭間に居る。ユーモアと真面目を行ったり来たりをくり返しつつ、自分の言葉の在り様を模索しているのかもしれない。

幸いにも、こうして僕にはnoteという書ける場があるからこそ、そういう自分を捉えることがある程度は出来る。だが、比重として書くことの方が話す言葉よりも優位性があるような気がしてならない。話している時の自分も勿論自分自身なのだが、どちらかというとこうして書いている自分、書かれている自分の方がより自分のような気がしてならない。だが、そうなると僕は手記でコミュニケーションを取ることになってしまう。僕は一体どうしたらいいのだろうか。


 何ひとつ言葉はなくとも
 あなたは私に今日をくれた
 失われることのない時をくれた
 りんごを実らせた人々のほほえみと歌をくれた
 もしかすると悲しみも
 私たちの上にひろがる青空にひそむ
 あのあてどないものに逆らって

 そうしてあなたは自分でも気づかずに
 あなたの魂のいちばんおいしいところを
 私にくれた

谷川俊太郎「魂のいちばんおいしいところ」
『魂のいちばんおいしいところ』(サンリオ 1990年)
P.90,91

言葉だけで人は何かを語ることは出来ない。それも最近感じるところではある。それは姪っ子たちや従弟の子どもたちを見てヒシヒシと身に染みる。特に姪っ子は赤ん坊であり、言葉を持たない。唯一持ち得る言葉は「泣く」という行為である。そこから僕等は汲み取り、今何を求めているのかということについて想像する。その難しさに苦しむこともあるだろう。

段々と年齢を重ねると「泣く」という行為そのものが、何かの代理表象として現れてしまう。つまり、「その裏にはきっと何か」という意味を求めて邪推を始める。「純粋」という行為は年齢を重ねるごとにどんどん鈍くなっていく。やはり「意味」というものは時に恐ろしいものであると感じざるを得ない。そういう苦しさに僕は時々襲われることがある。

「そこに居るだけで良い」

僕はそう思う。これも何度も書いているが「人間は生きているだけで偉い」のである。それは、同時に「そこに居るだけで良い」という気持ちが僕の中にはある。何が起こる訳でもない、ありふれた誰かの日常に存在している。それだけで十分意味があるのではないか。わざわざ僕等が意味を付与するまでもなく、そこに存在するだけで誰かの意味にはなっている。僕はそういう視線を常に持っていたいと思う。

「日常/非日常」という区分けが僕は嫌いだ。「日常=非日常」が正確ではないのかと思えて仕方がない。僕は日常の中に在る非日常を見つめて生き続けたいとは思う。そう考えると、先に書いた「腰が重い」ということを肯定しようとしている、これも僕の嫌らしさなのかもしれないなと思ってみたりもする。僕は点よりも線で生きたいと直近の記録で書いたのにはそういうこともあるのかもしれない。

僕は誰かの点でなく線でありたい。

点が集合する、或いは点を繋げば線となると言われるが、それは余りにも寂しいではないか。線であればどんな形にもなれる。点を繋げば線にはなるが、直線でしかない。元々線であればそれは曲線でもいい訳だし直線でもいい訳だ。あらゆる誰かの線と僕の線が絡み合う。そうして生まれる空間にこそ僕は「あそび」を見い出し、そこにこそお互いの心の距離を見い出したいと訳の分からないことを書いてみる。


 5

 あなたは愛される
 愛されることから逃れられない
 たとえあなたがすべての人を憎むとしても
 たとえあなたが人生を憎むとしても
 自分自身を憎むとしても
 あなたは降りしきる雨に愛される
 微風にゆれる野花に
 えたいの知れぬ恐ろしい夢に
 柱のかげのあなたの知らない誰かに愛される
 何故ならあなたはひとつのいのち
 どんなに否定しようと思っても
 生きようともがきつづけるひとつのいのち
 すべての硬く冷たいものの中で
 なおにじみなおあふれなお流れやまぬ
 やわらかいいのちだからだ

谷川俊太郎「やわらかいいのち」
『魂のいちばんおいしいところ』(サンリオ 1990年)
P.52,53

手の温みを感じた瞬間に、僕はただ何とも言われぬ感情に襲われた。

ぎゅっと握られるその手に僕はただ、呆然と握り返すことしか出来ない。その恥ずかしさと温かさにただ酔いしれていたのだと思う。ただ「そこに居るだけで尊い」のに、僕の手を握る。谷川俊太郎の『生きる』の詩のとある一節だけが頭と心の中に過る。

「あなたの手のぬくみ いのちということ」

その手がほどける瞬間、僕はそこはかとなく寂しさを感じる。ただ、それでも、僕が感じた手のぬくみは確かにいのちだった。それは紛れもない事実である。僕は手放したくないと心から願った。小さな手を包み込む僕の手はぬくみを持っていたのだろうか。そうして僕は1人になる。

手に名残惜しさと微かなぬくみを感じ、電車に揺られる。クーラーで冷え切った車内で僕はそっと手を頬に当てたが、一瞬にしてそれは去って行った。昨日の夜の話である。

よしなに。

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