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雑感記録(88)

【最高密度の時間】


昨日今日で大学の友人が僕の地元に遊びに来てくれた。最近お互いに忙しくて中々時間が取れず会えていなかったので、こうして会いに来てくれることは何より嬉しいものがある。

大学の友人は何というか、抱えている悩みだったり考えていることというか…そういったところでのポイントが大体一致している。過去の記録でも何度か書いているが、共感することが全てではないが、こういった真面目な話をしてお互いに通じるという点に於いて非常に愉しいものがあるし、勉強になることが多い。

何より僕よりも情報収集能力が非常に優れており、数多くのことを知っている。文学は勿論のこと、美術や映画、音楽など基本的に僕は彼との情報交換を通じて新しい知見を得ることが多い。文化的側面に於いて後退している僕の地元では得られない情報ばかりで、彼と過ごす時間は常に新鮮味と面白さと色々なものが凝縮され僕に押寄せる。この快感は堪らないものがある。


(ⅰ)対話編

昨日はお互いに仕事だった。夜遅く仕事で疲れている中、混雑する電車に乗って彼は来てくれた。どこかご飯に行こうかと思ったのだけれども、体力的に持たないことであったり、GW初日ということもありお店が混んでいたので彼には申し訳ないがコンビニでお酒とご飯を買って家で食事をした。

食事をしながらお互いの現況であったり、本や映画の話をして盛り上がった。とりわけ、将来的な話の所で少し熱を帯びた。先日僕はとある社長との対話で本気でマイクロライブラリーを作りたいとの相談をしたとの記録を書いた。

この話をしたら、彼も賛同してくれて「ぜひ作ってほしい」とこれまた嬉しい言葉を掛けて貰った。彼と話しているうちに自分がやりたいビジョンが見えてきて、漠然としていたものが淵から徐々に固まりつつある感覚を僕は知覚した。そして絶対に成し遂げてみせようと誓った。

そんな中でふと彼からこんな質問が飛んできた。

「俺らってお互いに小説書いたりとか色々創作活動してる訳じゃん?俺は今でも続けているけどさ…。さっきの話を聞いてると、マイクロライブラリーを作るじゃん?創作者の場を提供したいって考えているって言ってたと思うんだけど、お前は何か創作することを諦めちゃったの?自分自身は創作しなくていいの?」

鋭い質問というか、正直結構ドキッとする質問だった。実は恥ずかしながら僕は小説とか詩を書いた時期があった。何なら詩は今でも書いているのだが、そういう創作活動(と大したものではないのだが…)をしていた。現にこうしてnoteを書いている訳だけれども、これも創作の1つとするのであれば含まれるであろうが…。

実際に創作している当初は何か小説やら詩やらで1発当ててやろうと思っていた。今思えば邪な感情から書き始めている所が良くないとは思うのだが、しかし創作をする人にとっては誰かに読まれたり鑑賞されたりするというのは嬉しいものがあるだろう。

この方の記事は以前の僕の雑感記録でも恐れ多くも引用させて頂いた訳なのだが、僕もこの方の記事に激しく同意するものである。そもそも何かを創作するという根本にあるのは、創作者側の何か溜まったもの、心に積もり積もったものが堰を切って溢れ流れ出るそういったものなのだと思われて仕方がない。つまり創作するという行為、そしてその創作物は創作者の心そのものである。

職業作家ともなれば、何より創作物に対して時間を割くことが出来るし、本を読む時間もかなり確保できる。コンスタントに書き続けることは難しいが、創作物を醸成できる時間を保有している。ところが、現実は中々難しいのだ。

彼も仕事をしながら小説を書いたり、音楽活動をしたりとしている。僕も仕事をしながら詩を書いたり、noteを書いたりしている。しかし、時間がない。本当に時間がない。創作物に心血注ぐ時間が取れない訳だ。凄くアイロニカルな表現になるが、創作行為に心血注ぐ為には売れるしかないというのが現状である。

だから僕はそういった人たちを救いたいと思った。もし僕がそういった場を提供することが出来て、それが売れなくてもいいし売れればそれはそれでいいと思うが、そこで何かが生まれようとする瞬間に立ち会いたいと思ってしまったのだ。僕も偉そうに言えた立場ではないが、その創作行為の難しさを知っているからこそ、そこで生まれる何かは例え日の目を浴びなくても素晴らしいものなのだろうと信じて疑わない。

仮に日の目を浴びなくても、僕が提供した場でそういった創作物を展示することが出来ればよりいいんじゃないかとも考えたり…。色々と頭の中を行き来していた。そうして僕は時間に敗けたことを悟る。やはり自身で創作して思うが、僕は僕自身の現実を見てしまったのだ。

そんなこんなで色々と僕の考える構想だったりコンセプトだったり、そういった話を彼に聞いてもらったことでより豊かで濃密な計画が出来つつある。35歳から40歳の5年間の間で動けるように準備したい。


(ⅱ)地元探訪

そして今日は朝から活動。混雑を避けるため早起きした。僕は彼が来たらキースヘリング美術館へ連れていこうと思っていたので朝から小淵沢まで運転して行ってきた。(ここからの写真は友人から貰いました)

中村・キースヘリング美術館

GWは朝8:00から開館しているということだったので、混雑を避ける為に朝イチで行ってきた訳だ。僕は足繁く通っている美術館なので行き慣れているが、やはり1人で見るときと友人と見に行くとでは作品の見え方も変化することがまた面白い。

僕が写ってしまっているのだが…。この空間が僕は非常に好きだ。少し傾斜になっているのだが凄く作品が見やすい。また天井が凄く良くて、優しい光が包み込むような空間なのである。僕は大抵1人で行くときはこの空間に1時間長居する。作品も無論良いのだが、ここに於いては空間が好きなのだ。ぜひ行って体感してもらうのが1番だ。

またまた僕が写り込んでしまっているのだが…。展示を見終わると外に一旦出てから中に戻る。この空間も非常に良いのだ。今日は快晴ということもあり、ゆったりと過ごすことが出来た。

キースヘリング美術館は作品も愉しめることは勿論なのだが、何よりも空間が凄く良いのだ。美術館もそれ自体がアートとして存在しており、そこにキースヘリングの作品が合わさって非常に良い場所なのだ。美術館と作品が一体となっている場所というのは滅多にない。ぜひオススメな場所なので行ってみて欲しい。

この言葉は非常に響いた…。今の時代にピッタリの言葉だと思わず感心してしまった。昨今はAIの発達が目覚ましく、芸術もAIに取って代わられてしまう可能性がある。そんなことはないと信じたいが、現実はそこまで迫ってきているのだ。これについては過去の記録参照されたし。


その後、富士山を近くで見たいとのことだったので河口湖まで車を走らせた。河口湖の方は観光客が多く混雑していたが景観はやはり良かった。

河口湖畔からの富士山

正直、僕は毎日飽きるくらい富士山を見ているので「ああ、富士山だな」という感覚なのだ。しかし、面白いことに彼も「おおん…富士山やな…」で終わったのだ。近くで見ても遠くで見ても富士山は富士山なのだ。

結局、車で河口湖を1周して、西湖、精進湖方面へ向かっていたのだがその時に彼がポツリとつぶやく。

「車で乗りながら見る富士山が1番綺麗だな…。刹那的な富士山が良いよな…」

これは正しく言い得て妙だと僕は感じたのだ。景色を十分に愉しむことも重要だと思うし、僕は常々自然を感じる時間を大切にしたいと考えている。そうして自然にやられたいとも思っている訳だ。時間を掛けて自然を感じることもその自然の壮大な時間を感じるためには重要だ。しかし、自然は常に流動的であり僕らは置いて行かれるのが常である。

自然の流れ、時間の流れというのは僕等自身どうにもしようとすることが出来ない。自然に留まってしまうとむしろその自然の流れに抗うような気がして、自然にやられるどころか、こちら側から自然を何とかしてやろうというある種の邪な感情で自然を捉えてしまうことにはなりやしないだろうかと考えてしまった。

瞬間的に現れる、彼の言うところの「刹那的な」自然というものを感知する能力が現代人には必要なのではないかと思われて仕方がない。

僕らが留まることは自然の摂理にある意味で反する。時間や自然は常に流動的でこの流れに身を任せることが重要なのだ。それこそが自然にやられるということであり、自然を感じることなのではないだろうか?無論、立ち止まって自然を感じることも重要であることは確かだが、そこに留まり続けてはいけない。それは傲慢以外の何ものでもないのではないだろうか。

この彼の一言で色々と考えることが出来た。

結局、ぶっ続けで何時間も運転していたので僕は疲弊してしまい、せっかく来てくれた友人に申し訳なさとふがいなさを覚えながらも「家に戻ろう」と提案し、僕の家に戻ってきた。


こうして最高密度の時間を過ごした訳だが、やはりこういう時間は最高だ。気心知れた友人と過ごす時間は何物にも代えがたい。本を読んだり芸術に触れる時間も勿論僕にとっては重要だ。しかし、それでも到底及ばない何かがここには存在する。昨日今日は正しくそれだった訳だ。

またいつか会える日を愉しみにして。よしなに。

今日のドライブのお供。奇しくも僕はレガシィではなく、インプレッサだったのだが…。



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