ボランティアの意味とは?結局それは、自己満か?

ボランティア〈自ら進んで社会事業などに無償で参加する人〉 広辞苑より

※いまボランティアということばに活動を含める

ボランティアに主観的な意味のみならず、そこに何か客観的な意味があるとすれば、それは自分のうちなる意識の対話によって、自己意識を確立すること、その契機(きっかけ)を生み出すことであろう。

ボランティアの主観的な意味

ここで「ボランティアの主観的な意味」というのは、ボランティアを通じて得られるもの・対価が、自分以外の人びと・他者にとって無益なものであり、自分にのみ何か利益をもたらすものをいう。 たとえばボランティアの対価となるものが、あるいは「就職活動に役に立つ」とか、あるいは「無償の社会貢献による精神的達成感を得るため」とか何とかいうのは、自分以外の人びとに役に立つことではないし、たとえ何かに役に立っているとしても、役に立っているのかどうかを判断するのは主観でしかない。

と、このように考えると、結局のところ、なるほどボランティアには主観的な意味しかなく、ボランティアとは自分の利己心を満たすことに終始する活動(自己満)なのだと思えてしまう。

ボランティアの客観的な意味

さてこれに対し、「ボランティアの客観的な意味」というのは、ボランティアの対価が自分のみならず、万人に等しく妥当するようなものをいう。 たとえば(同一労働においては同一賃金として)働けばお金がもらえるのは、これは「労働の対価となるものは賃金である」というルールが自分だけではなく、万人にも等しく通用している客観性を意味する。 これとおなじように、ボランティアの客観的な意味にーーボランティアの対価となるものが就活に有利や精神的達成感などのように変動する主観的価値を意味するのでなくーーそこに何か一定不変の価値があるとすれば、それはボランティアによって、自分のうちなる意識を対話させ、自己意識を確立すること、その契機(きっかけ)を生み出すことのように思われる。

ボランティアに対価を定めることは無益である

しかしこれには、ボランティア活動に何もみがえりを求めることなく、しかし何のためのボランティアかと疑問をいだきながら、相反する矛盾を一身にかかえて、その活動を、たちどまって、反省してみることが必要といえる。 なぜならば、精神的であれ物質的であれ、ボランティアの対価となるものを何か定めてしまえば、結局のところ対価を得て満足するだけであり、しかもまた、それ(対価)に疑問を持たなければ、働けばお金がもらえるというような図式は自明の前提として固定化され、それを前提として演繹されるいかなる結論からも、柔軟で、新しい考えはけっして生まれることはないからである。すなわち、ボランティアに対価を求める以上、自分を変えることはできない。

ボランティアの対価となるものを無に見なければ生まれることのない何か、これこそ古来より〈無〉が尊ばれてきたもっともな所以(ゆえん)であろう。 ここから思い切って引き出せる結論は、逆説めいて聞こえてほしいのだけれども、無償で社会貢献する人になろう、ということです。

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