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謝罪することと許されることは別である
「うるせえな、謝ったんだからいいだろ。しつこいぞ!」
問題行動を起こした者の言葉である。
被害者に対して、ぞんざいながら一応の謝罪はした。
だからもうこれで解決だろ、チャラにしろと言っているのだ。
この者は「謝罪すること」と「許されること」は別だということが分かっていない。
謝れば済むことではないのである。
こんな場面は、学校で子どもたちを相手にしていれば山ほどある。
特に加害の側が、発達特性のある子、謝ること自体が難しい子の場合、やっとこさ謝罪の場面にこぎつける。
そして、不本意な態度満々で謝罪する。
謝罪された被害の側は、そんな態度で謝られたってもちろん気が済まない。
物を壊された、暴力を振るわれたなどの、損害も被っている。
もっと真摯な態度で謝ってもらわなくては、とうてい承服できるものではない。
だが、加害の側にしてみれば、
「もう謝ったんだからいいだろう。
こっちはすごーくイヤだったけど謝ってやったんだから、あとは知るか。
そっちのほうこそ、こっちを許す義務があるぞ」
と、言わんばかり。
だから、学校現場では、子ども同士のトラブルによっては、安易に謝罪の場は設けない。
これが、幼稚園・保育園だったら、違うだろう。
「ごめんね」
「いいよ」
トラブルの程度も、こんなやり取りで済む、小学校や中学校に比べれば、可愛いレベルのものが多い。
だが、小学校の高学年や、中学校になるとそうはいかない。
暴力による怪我、SNSによる揉め事、窃盗、性被害と、大人の世界と同じようなトラブルがある。
子ども同士のトラブルがある意味むずかしいのは、それが学校管理下にあるからである。
じゃあ、放課後の公園や、友達の家に遊びに行っているときなどに起ったトラブルなら学校管理下ではないから学校は関係ない――となるかというと、そうもまたいかない。
放課後起きたトラブルであっても、人間関係は教室も放課後もいっしょだからだ。
放課後起きたトラブルの影響は、当然学校にも影を落とす。
なので、いつ、どこで起きようと、大なり小なり学校は子ども同士のトラブル解決に動き出さなければならない。
なぜ、学校管理下のトラブルの解決がむずかしいのか。
それは、学校は、警察や裁判所ではないからである。
あくまでも、教育的観点から、子どもたちを「教え、育てよう」という意識から、トラブルに対処する。
だから、犯人を見つけようとか、罰しようとか、弁償させようとか、そういうふうに学校は動かない。
これがときとして、保護者の不満を呼ぶ。
手ぬるい!
もっとガツンとやれ!
ということである。
「自分たちが子どもの頃は、もっと学校の先生はこわくて、こんなこと起きても一喝されて直ぐ解決した」
などと言う親もいる。
いや、今の小学生の親なら、自分自身の子ども時代といえば平成だ。
昭和時代じゃあるまいし、既にそんなガツンとやる先生、そうそう居なかったと思うのだが、そんなことを伝えると、保護者の怒りの炎に油を注ぐことになるので、もちろん言わない。
客観的に見て、かなり加害の子どもの側に問題がある場合でも、その保護者が非を認めて被害の子ども側に謝るというケースは少ない。
普段から言動に課題のある子の場合、その保護者もまた言動に課題があったりするので、なかなか大変である。
いや、冗談ではなく、加害被害の子ども同士では一定の解決はしているのに、双方の保護者が収まらず、いつの間にか子どもではなくて、双方の保護者の対応に職員が時間を取られるようになってきている――というケースも少なくないのだ。
まったく、日本の教員の仕事のメインとは、いったい何なんだと思ってしまう。
諸外国なら、教員はそんなこと対処しなくて当たり前だ。
気骨のある校長が、
「学校管理下外のことなので」
と、保護者からの対応要請を断ったとしよう。
すると保護者は、教育委員会やら町内会長やら、はたまた議員などに訴える。
そして、そちらから学校に圧力がかかる。
これでは学校教育の独立性などとうてい保てない。
私は先日始まった「院内警察」というテレビ番組を興味深く観た。
病院で起きる様々なトラブル対処のため、病院内に院内交番が設けられ、そこに元刑事が勤務している――という設定のドラマだ。
おもしろい設定だ
現実には院内交番というシステムは存在しない。
ただ、警察OBが、相談員というか支援員というか、病院内トラブル解決のためのお手伝いをする形で存在している--というケースはあるようだ。
このドラマのように、がっちり警察のような仕事をするわけではないようだが、いずれそういったシステムは日本の病院に普及していくかもしれない。
同じように、私は、学校にだって「院内警察」ならぬ、「校内警察」が必要なケースがあると感じている。
先述したとおり、教員の仕事は、警察や裁判所とは違う。
しかし、ときとして、教員は警察や裁判所のような対応を求められるときがある。
そしてそれは、決して少ないわけではない。
ならばむしろ、本当に警察官に居てもらい、暴行障害、器物損壊、窃盗、性被害などの事案が発生した場合、専門的見地から動いてもらったほうが良いと考えるのだ。
たとえば昭和時代、店で子どもが万引すると、店員は学校に通報してきた。
連絡を受けた教員は、店に出向き、店員に謝罪し、ときには代金を払い、子どもを引き取ってきた。
教員は、学校に子どもを連れ帰り、保護者に迎えに来てもらうのである。
店としては、同じ地域のお客さんである子どもの保護者と揉めたくない。
といって万引きは容認はできないが、警察に通報となると角が立つ。
そこで、学校に連絡してくるのである。
日本の学校の教員は、昔から、子どもの親もどき、疑似家族みたいな存在だった。
だから、何かことが起きると、本来の教員の業務でなかったときでも対応してやる等ということは日常茶飯事だった。
万引きしたと店から通報のあった子どもの引き取りもそうである。
しかし、令和の今は、もし店から万引き通報があっても学校は対応しない。
警察への連絡を促す。
万引きは窃盗である。
犯罪であり、本来学校が対応すべきことではない。
今、考えれば至極当たり前のことだ。
でも昭和はこれが当たり前ではなかった。
それどころか、警察に通報などしようものなら、
「子どもを警察に売った!」
などと、見当違いの逆恨みを受けりした。
今にして思えば、本当におかしなことである。
昭和時代「3年B組金八先生」が放映されていたころは、警察はまるで学校の敵のように描かれていた。
問題行動を起こす生徒をかばう教員と、取り締まりに学校に乗り込んできた警察官が対立していた。
だが実際、荒れる中学生の対処は、通常の一般人である教員には不可能だ。
もはや犯罪レベルの行いをする中学生に対し、教育的な、巧みな対処をできる教員はわずかだろう。
それに、そもそも犯罪なのだから、きちんと法に則った対処がされるべきであり、子どもであることを理由に、不適切な行いが容認されることがあってはならない。
令和の今は、昭和のドラマの頃と比べると、学校と警察ははるかにスムーズに連携が取られるようになった。
子どもに重大な問題行動があれば、学校は警察と連携して対処する。
店にも「万引は犯罪です。即、警察に通報します」という掲示が当たり前になった。
万引きの事実があっても学校が間に入って多目に見るという慣習が無くなってきたのは、本当に良いことだ。
今更だが、それは極めて当たり前のことではあるのだけれど。