「不自由な人」という差別回避表現
人権意識というか、日本人の民度というか、明らかに昔より良くなっていると私は感じている。
昭和の頃、それも昭和前半の時代は、学校の教室で嘔吐したり失禁したりしてしまった子は教員の激怒の対象だった。
教室で大便を漏らしてしまった小2の女の子が、担任の女教師に激怒され、廊下までぶっ飛ばされたなどという話を、私は高齢女性から聞いたことがある。
令和の今、同じことが起きたならば、その漏らしてしまった子は、いたわり、守られる対象である。
廊下までぶっ飛ばすなどとんでもない。
そんなことする教員は、人権意識が低いとして処分の対象になるだろう。
だが、昭和の時代は、そんな光景は日本中の学校で当たり前だったのだ。
先日、私の勤務校で児童が嘔吐したことがあった。
数日後、その子の祖母が、校長と話がしたいと学校に申し入れてきた。
日程を調整して来校してもらい、その祖母から話を聞いた。
話の内容は、教室で吐いてしまった自分の孫はみんなからいじめられるだろうから何とかしてほしいというものだった。
私は、当該児童がいじめられた事実があるのかその祖母にたずねた。
まだいじめの事実は無いそうだが、これからあるかもしれないというのが祖母の懸念だった。
私は祖母に説明した。
令和の今、子どもたちの人権感覚は、昭和の頃に比べて格段に向上している。
吐いたり漏らしたりした子がいたとしても、かばうことはあっても、それを理由にその子をみんなでいじめるようなことは無い。
その話を聞いて、祖母は最初「信じられない」という反応だった。
祖母自身が小学生だった昭和の頃は、吐いたり漏らしたりした子はそれを理由にいじめらることは当たり前だったからだ。
私の説明に半信半疑ながらも一応は安心して祖母は帰宅した。
その後、当該児童のその祖母の孫が嘔吐を理由にいじめられた事実は無い。
高齢の政治家や芸能人の失言がよく問題視されるが、この祖母のケースも同じだ。
人権感覚の認識が、昭和時代で止まっている。
私も還暦だが、幸いなことに、教育委員会からの人権研修をちょくちょく受けているので、自身の人権感覚を最新のものにアップデートできている。
昭和時代は、子どもたちを宿泊学習に引率するとき、気を遣った。
寝小便に対してだ。
もし、寝小便をしてしまった子が出た場合は、同室の子どもたちに外部への口止めをし、また、寝小便してしまった当人を決してからかったりしないよう指導しなければならなかった。
だが、平成時代に入ると、それは少しずつ変化した。
そして令和の今、寝小便をした子がいても、教員が指導するまでもなく、周りの子どもたちは寝小便をしてしまった子に配慮するし、そのことを面白おかしく外部に言いふらしたりすることはしない。
平成30年間の学校教育で、日本の子どもたちの人権感覚が確実にアップデートされたのだ。
昭和の頃は、男女の子どもが2人で話をしているだけで、
「付き合ってるのか?」
「好きなんだろう!」
「ひゅーっ、ひゅ-っ」
と周りがはやし立てたものだった。
この話を平成生まれの若い先生たちにすると
「信じられない」
とのことだった。
こういった「ひやかし」についても、平成の30年間で変化した。
平成生まれの若い先生たちは、そんな男女2人でいることへのひやかしの存在に対して、意味が分からないという感じだった。
「男女7歳にして席を同じゅうせず」
を否定する教育基本法が制定されたのは1947年。
「ひゅーっ、ひゅーっ」なるひやかしは、それ以前の、古い時代の慣習の遺物に感じられたことだろう。
令和の今、男女の子ども2人が話をしているからと、「ひゅーっ、ひゅーっ」とはやし立てる子は誰もいない。
男女2人で登校しようが、下校しようが、放課後遊んでいようが、それをはやし立てる姿は見られない。
昭和の頃は、今は差別的として使用が控えられている多くの言葉が、テレビでも話されていたし、活字にも印刷されていた。
だから子どもだった私は、それが普通だった。
そのまま大きくなれば、それらの言葉の使用に何の疑問も感じまい。
それで失言してしまう高齢者の政治家や芸能人が居るわけだ。
昔のテレビ番組や漫画を見返すと、令和の今ならアウトな表現だらけである。
テレビ番組については、平成時代に地上波で再放送されるときには、そこだけ音声がカットされることもあった。
令和の今、昭和時代のテレビ番組が地上波で放送されることはほとんどない。
代わりに、各種配信サービスで目にすることが多い。
そのときは、オリジナリティを尊重する意味合いで、カット無しで放送されていることが多いように感じている。
当時、制作者は差別の意図なくそれらの言葉を使用していたため、当該番組は人権侵害には当たらないという判断だ。
場合によっては、「オリジナリティを尊重して放送します」といった旨のテロップが入ることもある。
令和の今を生きる我々は、昭和がそういう時代であったことを分かって昔の番組を見ているので、そのことが大きく問題視されることはないようだ。
もちろん、令和の今制作される番組で現在不適切とされる言葉が使われるのは、問題とされるだろう。
だが、昭和に作られた作品なんだから、そこは大目に見ましょうというわけだ。
これが、漫画だと話が違う。
漫画の場合は、登場人物が発する言葉の中に現在不適切とされるものが含まれている場合は、可能な限り今OKな言葉に置き換えられている。
たとえば、
・障がい者
・目が不自由な人
・足が不自由な人
・耳が不自由な人
・言葉が不自由な人
といった言葉に置き換えられている。
昭和の頃は、それらは、現在は差別語で不適切とされている、もっと短い言葉だった。
短かったから、登場人物の言葉も、ぽんぽんスピーディーに頭に入って来た。
だが、それらは、令和の今なら「差別語」とされる言葉だ。
差別語を使えないため、台詞を改変された昭和の登場人物たちは「○○が不自由な人」という言葉を多用する。
やたら「不自由な人」という表現が出てきてくどく感じてしまい、こっちとしては読むのが不自由になるのだが、ほかにやりようがないのだろう。
このあたり、漫画の場合は、昭和のテレビ番組のように、そのまま世に出すというわけにはいかないらしい。
また、セリフの改変だけでは解決できない問題もある。
漫画『ドラえもん』第1話では、のび太が誤って首つり状態になってしまうシーンが、ギャグとして描写されている。
このシーン、今はまだ問題とされていないようだが、もしかしたら今後は変わるかもしれない。
ただ、「ドラえもん」という作品は、今後はもはや古典という扱いになっていくだろう。
今とは違う価値観の時代に生み出された作品なのだから、令和の価値観のものさしで計るのはやめようということになる。
そして、オリジナリティ尊重ということで、今後もそのまま世の中にあり続ける――十分に考えられることだ。
そして、そんな、昔から続いている漫画作品は「ドラえもん」に限らずたくさんある。
アニメ化もされている。
原作漫画は古典としてオリジナリティを尊重。
そして、アニメ化したり、令和の漫画家によってその作品が描かれたりするときは、令和の最新の人権感覚に照らして問題が無い表現で世に送り出す。
そんなふうになっていくに違いない。