担任としては今イチだけど、管理職に向いている人もいる。
■「名選手、必ずしも名監督ならず」
スポーツの世界で昔からよく聞く言葉だ。
現役時代すぐれた選手だった人が引退して指導者になったからといって、必ずしも優秀な指導者になるとは限らない。
だが、考えてみればこれは当たり前のことだ。
選手と監督は、まったく別の能力が求められる。
選手として優秀な能力をもっていた人が、監督として、指導者として優秀だとは限らない。
■「バッといって、ガッ」天才 長嶋茂雄の言葉
むかし巨人軍で活躍した長嶋茂雄氏。
彼は天才肌だった。
「どうやって打てばいいんですか?」
と質問されて、
「バッといって、ガッと振るんだ」
と答え、質問した相手を困惑させたというエピソードは有名だ。
長嶋氏は、選手としては優秀だったが、はたして指導者としてはどうだったかという話は、こういったエピソードからくるのだろう。
選手から指導者へなった場合。
大きく分けると、次の4つのケースがある。
1.選手○ → 指導者○
2.選手× → 指導者×
3.選手○ → 指導者×
4.選手× → 指導者○
1は、選手としても優秀だったし、指導者となってからも優秀な場合。
このパターンは何の問題も無い。
2は、選手としてもイマイチだったし、指導者となってからもイマイチな場合。
あまり多いケースではないが、絶対無いともいえない。
3は、選手としては優秀だったが、指導者となってからはイマイチな場合。
けっこう、世の中にはあるパターンだと思う。
4は、選手としてはイマイチだったけど、指導者となってからは優秀な場合。
これも、あまり多いケースではないが、やはり絶対無いとはいえないパターンだ。
■天才は、決して教え方が上手とはいえない
教えられる側が困るのは、3の場合だ。
指導者は自分が優秀だった、できたものだから、できない者がなぜできないのか分からない。
「バッといって、ガッとバットを振れば、ボールを打てるはず」なのに、なぜそうやって選手がボールを打てないのか分からない。
天才肌の人は、感覚で物事をこなしてしまう。
それを、誰にでも分かるように言語化して伝えることができれば良い。
できない場合、決して優秀な指導者にはなれないだろう。
いっぽう、選手としてはイマイチだったけれど、指導者としては能力を発揮する人がいる。
たとえば、現役時代は野球選手としてさほどではなかったが、監督となってからは力を発揮し、チームをトップにまで導いてしまうような人はいるのだ。
■同様な事は、学校にもいえる。
次の4つのケースが、学校にもあるのだ。
1.教員○ → 校長○
2.教員× → 校長×
3.教員○ → 校長×
4.教員× → 校長○
例によって1は問題ない。
2のケースについては、お読みの方はありえないように感じるかもしれないが、たしかに存在するのだ。
そんな教員を教頭、校長にしてしまう教育委員会は、一体どこに目を付けているのかと思う。
同じ学校の教職員は気の毒である。
3はよくあるケースだ。
実は私は自分が教頭時代、このパターンで苦労した。
教員時代は魅力的な実践をしていた人だったが、なんで校長になって、こう次から次と悪手ばかり打つのだろうと思わせることばかりをする。
苦労させられた。
修行になった。
4のケースは、一見無いように思うかもしれないが……
実はある。
滅多に無いケースだと思うが、私は一例知っている。
授業も、児童生徒指導も、学級経営もみんな下手だが、人間関係つくりがうまいのだ。
だから、誰とも大きなトラブルを起こさない。
児童生徒指導問題が起きても解決のためには他の教職員からの助力を上手に得るので、大事にせずにトラブルを収めてしまう。
自分自身に力が無くても、周りに力のある人がいて、その人たちの力を利用することができるのであれば、それはその人の力であるのと同じことだ。
■実はリーダーに向いている他力頼みの人
実は、他人の力を活用するのがうまい人は、リーダーに向いている。
漫画「ワンピース」のルフィは、
「俺は剣術を使えねェんだコノヤロー!!!」
「航海術も持ってねェし!!!」
「料理も作れねェし!!」
「ウソも付けねェ!!」
「おれは、助けてもらわねェと生きていけねェ自信がある!!!」
という名言を叫んでいる。
リーダーに必要なのはこれだろう。
極論、自身に何の能力が無かったとしても、周りに優秀な人間を集め、その人間たちの優秀な力を活用して課題を解決していく――これができれば、立派に集団のリーダーが務まるのではないか。
「ワンピース」に登場してくる個性豊かな面々は、ルフィなしでは絶対まとまらない。
彼らはルフィがいるからチームを組んでいる。
リーダーは、メンバーが気持ちよくチームを組めるような、そんな集団を作ることができれば、おそらく100点だ。
「ワンピース」ではルフィ本人も高い能力をもっているが、現実の世界では、指導者の立場に立つ者は現役を退いているケースがほとんどで、本人にはもうそれほど高い能力は求められない。
代わりに、チームをまとめる力が求められる。
■一般教員時代はパッとしなかった人も、校長となってから本領を発揮することがある。
自分自身、現役時代、大した教員ではなかったわけだから、校内の教員をうまく指導はできないかもしれない。
しかし、そこは、優秀な教頭や主幹教諭の力を活用するわけだ。
戦国武将は、自分がいちばん強かったわけではない。
もし実際に刀を交えたら、自分よりも強い部下が何人もいた。
自分よりも強い部下を率いるのにはチームをまとめる力が必須だ。
そして、そのためにいちばん大事なのは「相手を分かってやること」である。
「おまえすごいなあ」と認めてやることである。
「武士はおのれを知る者のために死す」という言葉がある。
武士は、自分を分かってくれる者のためならば、命すら投げ出すのである。
学校現場においては、そんな命懸けの状況は無い。
無いが、応用できることだ。
校長は、職場の教職員に対し理解を示し、「あなたはすごいですね」と認めるのである。
もちろん、上っ面の言葉だけでは駄目だ。
その教職員のどこがすごいのかきちんと見出し、具体的に言及することである。
■皆の前でほめられることを好まないZ世代
また、最近、特にZ世代と呼ばれる今の20代は、皆の前でほめられることを好まない。
ほめるのならば、校長室に呼ぶなどして、目立たぬようにそっとほめるのが良い場合がある。
もちろん、相手の個性もあるから、そこはケースバイケースで見極めなければならないのが難しいところではあるのだが。
昭和の頃は、ほめるのも叱るのも皆の前でというのが普通だった。
だが平成の頃から、叱るのは皆の前では「公開処刑」になるからそれはやめ、「そっと呼んで」というのがだんだん一般的になった。
それは上司が部下を叱責するのも、担任が学級の子どもを指導するのも同様だ。
そして令和の今は、ほめるのも叱るのも「そっと呼んで」という場合が出てきた。
みんなの前でほめるのも、ある意味「公開処刑」なのである。
令和の若い人(もちろん子どもを含む)は自分の意に反して目立つことを嫌う。
さらに、ほめられることは「なんだよ、アイツばっかり」と周りからのねたみを買う場合がある。
すると、すぐに裏で悪口のLINEなどが回り始めるため、ともかく目立つのは避けたいのである。
現役時代パッとしていた人であろうとなかろうと、令和の今はそういったことに配慮できるのがリーダーとしてマル印と言えそうだ。