リオタール 終焉 を考察する
リオタールはフランスの哲学者で「ポストモダン」という言葉を持ちこんだ大変影響力のある人でした。
ポストモダン
リオタールが持ち込んだ「ポストモダン」という言葉は日本において、80年代に大ブームを起こします。彼は、プラトン以来の真理の探究、科学など世界を牽引してきたものに疑義を挟みます。西洋が提示する「大きな話し」が信頼できなくなり、未開の民族や「私」というようなパーソナルなものの方に信用がありそうだという、感覚が生み出したのがポストモダンです。価値観の多様化や、絶対価値の無意味化が声高に主張され、「哲学の終焉」が流布されるのです。特にフランス現代哲学は西洋中心主義への反発から、転覆を謀らんと野心的な人が多かったのです。「近代を超える」それが「ポスト」モダンです。近代の解体作業を請け負ったのがリオタールです。
終焉の終焉
ポストモダンは、全てを相対化させる「相対主義」でもあります。しかしここに大きな問題、いや自己矛盾が起きるのです。相対化させながらも、自身の哲学である「相対主義」だけは相対化できないのです。相対主義が絶対化するという大問題が生じるのです。この偉大な矛盾点が白日のもとに晒されてから相対主義でありポストモダン運動は一気に終焉に向かいます。
さて、リオタールが目指した「哲学の終焉」はあったのでしょうか?イデオロギーも思想も、哲学もなくなるのでしょうか?世の中見渡せば大学にはまだ哲学科がりますし、企業もリベラルアーツなどを学ぼうとしています。そして科学、医学、経済などが「倫理」と手を携えて、あり様を考えています。地球温暖化問題や環境問題も解決からは程遠い問題です。
そして市場が発達し資本主義が極まりましたが、格差が大きくなり貧困はまだあります。またダイバーシティーと言う新しい課題も出てきています。国際的にも、テロなどの新勢力の勃興など政治哲学も再考を問われています。これらの現実の現象に対してこのように考えると、終焉どころか哲学の新たなる始まりであり、より分化していくのではないでしょうか。「終焉」が終焉し、また哲学の旅が始まるのです。