教科書から消えつつある?語句——「海の民」
世界史講師の伊藤敏です。
(以下、冒頭はほぼテンプレ)
さて、2022年に高校社会科は大きな転換点を迎えました。
この年から、2018年に改訂された高等学校指導要領にもとづき、社会科の科目に大きな変更が生じたのです。
世界史における主な変更点は、
⑴ 世界史A・世界史Bの廃止
⑵ 世界史Aと日本史Aに代わる「歴史総合」、世界史Bに代わる「世界史探究」の設置
です。
この措置にともない、当然ながら教科書も大幅な変更がなされます。
実際に手に取ってみると数々の変化に驚かされますが、
なかでもやはり目につくのが用語の新たな扱いです。
新しい世界史探究(以下「探究」と呼称)の教科書では、従来の世界史B(以下「B」と呼称)と比較して語句の表記が変わったもの、説明に変化が生じたもの、新たに加えられたもの、などが見受けられます。
とりわけ、これらと並んで、教科書や用語集における記述に変化が生じた用語も登場します。
なぜこうした変化が生じることになったのでしょうか?
今回はそうした用語の一つである、「海の民」というものを取り上げて見ていきます。
では、はじまりはじまり~
1.「海の民」と教科書での扱いとは?
さて、今回のテーマである「海の民」といえば、
⑴ 民族系統不明の海洋民族
⑵ ヒッタイトやエジプト新王国、ミケーネ文明の滅亡を招いた
という認識をされている方が少なくないのではないかと思います。
一方、世界史の授業者のみなさまであれば、
上記の説明を読むと、「ちょっとこの説明古くない?」と首を傾げられる方が圧倒的に多いのでは、と思います。
そう、先の説明は、私が高校生であった2000年代初頭の高等学校or大学受験世界史で広く見られたものです。
実は、「海の民」をめぐる問題は、「探究」に改訂される以前の「B」の時点で、すでに変化が見られました。
例えば、山川の「B」では、
とあります。
この説明では、「海の民」がエジプトやヒッタイトを攻撃したかどうか、そのあたりすらぼかされた書き方がされていますね。
また、語句は太字ではなく、地の文と同じ書体(細字)で記載されています。
別の箇所(エーゲ文明の項目)では、
と、脚注でわずかに触れられるに留まっています。
一方、用語集では、
とあります。教科書とは対照的に、ヒッタイトやエジプトの衰亡の原因であるとはっきり書かれていますね。
頻度は⑥(最大は⑦)で赤字、すなわち重要語句として扱われています。
加えて、「エーゲ文明」の項目でも頻度④で赤字、とやはり重要語句扱いです。
では、「探究」での扱いはいかがなものでしょうか?
まず山川の「探究」の教科書での記述は、上記の「B」のものと全く変わりはありません。
しかし、一方で帝国書院の「探究」では、「「海の民」の来襲によってヒッタイトが滅亡し、エジプトが弱体化した」と記載されています。こちらは旧説、というより従来の教科書の記述を踏襲したものといえるでしょう。
ここで気になるのが、やはり用語集での扱いですね。
「探究」に対応した山川の用語集を見てみると、
と書かれています。
エジプトへの影響はそのままに、ヒッタイトが滅亡しなくなりました。あれ、「海の民」弱くなってんじゃね?頻度は⑤(最大は⑦)と若干下がりはしたものの、重要語句として赤字で扱われています。
というわけで、こと山川の教科書では大きな変化はないものの、
「海の民」をめぐる教科書での扱いに、変化が生じつつあることは事実でしょう。
場合によっては、将来的には教科書から消える可能性も否めないと、個人的には考えています。
では、この変化が意味することは一体何でしょうか?
2.「海の民」と史実
と、ここで「探究」対応の用語集にこんな項目があります。
それが、
「海の民」侵入説
です。
侵……入……説……?
説明文には、「ミケーネ文明滅亡の要因を、「海の民」によるものと推定する学説」とあります。
ついに学説になっちゃいましたよ!
え、なんすかこれ? ちなみに頻度は④と、重要語句=赤字ではないものの、決して少ないとは言えない数字になっています。
……よくわからなくなってきましたね。
ではここからは、史実における「海の民」を掘り下げてみましょう。
といっても、「民族系統不明」であったり「謎の海洋民族」なんて呼ばれているだけあって、現在でもその詳しい実態は明らかにはなっていません。
「海の民」自身が記した記録はありませんが、彼らと接触した諸勢力による記録から紐解いていくとこうなります。
エジプトの記録❶——メルエンプタハの治世まで(前13世紀末)
「海の民」に関する最古の記録とされるのが、前1208年のエジプトの碑文です。
この碑文は、ファラオ・メルエンプタハ(ラムセス2世の第13王子)が、
ペルイレルの戦いでリビア人(古代リビュア人)と様々な民族との連合軍に勝利した、というものです。
ペルイレルの戦勝碑文で言及されているのは、デニェン人、エクウェシュ人、ルッカ人、ペレセト人、シェケレシュ人、シェルデン人、テレシュ人、ジェケル人、ウェシェシュ人で、
コレージュ・ドゥ・フランスの教授で後にカイロ博物館の館長も務めたガストン・マスペロが、これらの民族を総称して「海の民」peuples de la merと呼んだことで一般化したのです。
ペルイレルの碑文に登場する民族は、ほとんどがギリシア系(アカイア人)と目されており、
ルッカ人はリュキア(アナトリア南西部)、
ペレセト人は『旧約聖書』におけるペリシテ人(フィリスティア人)、
シェケレシュ人はシチリア、シェルデン人はサルデーニャにそれぞれ比定されています(異説あり)。
また、これ以前にもシェルデン人はラムセス2世の治世2年目にナイルデルタを襲撃したものの撃退され、
この時に捕虜となった一団はエジプト軍に組み込まれ、あの有名なカデシュの戦いでヒッタイトとの戦闘にも従軍したといいます。
エジプトの記録❷——ラムセス3世の治世中(前1178~74)
前1177年、この年にナイル川の三角洲(デルタ)一帯に、様々な民族の集団が押し寄せたといいます。
これと交戦したのが、当時のファラオ・ラムセス3世でした。
ラムセス3世はナイルデルタの戦いやヂャイの戦いで勝利し、これら侵入者を撃退したと記録されています。
侵入者は海だけでなく、ペレセト人やジェケル人は陸路から侵入を試みたといいます。
ラムセス3世の治世における諸史料が、もっともよく知られた「海の民」の記録となっています。
とはいえ、ここで注意しなければならないのは、
「海の民」の侵入がエジプト新王国の衰退に及ぼした影響がはっきりとはわからないということです。
末期の新王国は確かに「海の民」の度重なる侵入を受けていたことは事実でしょうが、それだけでなくリビア人やヌビア人といった様々な外敵にも対処する必要がありました。
むしろ、これらの外敵の侵攻がほぼ同時期に活発になったということは、
すでに新王国の衰退は始まっており、国威が傾いたことによりその傾向がより顕著となったと見なすべきなのかもしれません。
ウガリトの遺構と記録
ウガリトはシリア北部に位置する、古代カナーン人の港湾都市で、
前13~12世紀に記されたウガリト文書という記録にも、「海の民」と思しき一団が登場します。
ウガリトは前1190~85年の間に破壊され、その様は非常に凄惨であったことが考古学的な発掘から窺われます。
都市のいたるところで破壊や火災の形跡があり、建物は城壁も含めて原形をとどめない瓦礫の山と化したといいます。
しかし、これだけでは地震などの天災による破壊(シリアは古代より地震の多発地帯)との区別がつきませんが、ウガリトでは街のいたるところで矢尻が発見されており、これは市街地で激しい戦闘があった証拠であると主張する学者もいます。
仮にウガリトが戦闘によって徹底的に破壊されたとしても、それは果たして誰の手によるものなのでしょうか?
ウガリトの王宮遺跡で見つかった粘土板(書簡)には、「敵の船が襲来し、国の各都市に火を放ち、国土に損害を与えた」という旨が記されています。
ですが、この粘土板では「敵」が明示されておらず、
また仮に「敵」が「海の民」だったとしても、エジプトの文献によるところの、メルエンプタハの治世におけるものなのか、それともラムセス3世の治世におけるものなのかがはっきりしません。
こうした破壊の形跡は、同じくシリア各地の都市にも同時期に見られ、その損害が激甚であるものも少なくないのです。
とはいえ、その原因がはっきりしない以上、これらの破壊が「海の民」によるものか否かは議論の余地があると言えます。
また、ここまでのいずれの記録においても、
「海の民」に相当する呼称は見られないということも留意しておくべきでしょう。
総括すると
「海の民」は様々な民族からなる集団であり、統一的な「民族」とは言い難い混成団であったと考えられます。
また、エジプトにおける記録や、「海の民」の移動と関連付けられる破壊の跡なども見られますが、これらすべての原因を「海の民」に帰するにはやや厳しいと言わざるを得ません。
3.崩壊の連鎖——パーフェクト・ストーム
結局のところ、「海の民」とは何か?
その答えはわからないとしか言いようがありません。
しかし、ここで注目すべきは、
前1200年前後を境に、東地中海における諸勢力がこぞって滅亡あるいは衰退したという事実があるのです。
この一連の崩壊劇は、「後期青銅器時代の崩壊」あるいは「前1200年の破局(カタストロフ)」と呼ばれます。
かつてはその原因は「海の民」に帰されていましたが、
では実際のところはどうだったのでしょうか……?
まず大前提として、
前1300年までに、東地中海やオリエントの諸勢力は、交易によって経済的に強い結びつきを持っていたということです。
結びつき、というよりもシステムと呼ぶにふさわしいネットワークを構築していました。
ヒッタイトやエジプト、ミタンニ、カッシート、そしてギリシアのミュケナイ(ミケーネ)諸都市は、時に抗争しながらも同時に重要な政治・経済的な相手国として、国際関係を育んでいました。
崩壊の兆しは、ミュケナイにありました。前13世紀後半のヒッタイトの君主であるトゥドハリヤ4世の書簡において、ミュケナイ(ヒッタイト語でアッヒヤワ)は大国の地位から転落していることが伺えます。
実際、ミュケナイ諸都市では各地で大規模な破壊の痕跡が、発掘調査によって認められています。
ミュケナイ市を例にとると、城塞都市の各地で火災による破壊の跡が発掘されています。
しかし、この火災が天災や事故によるものか、はたまた戦争によるものかは判別ができません。また、ミュケナイは確かに大規模な破壊がありましたが、完全な崩壊には至らず、前12~11世紀の間に小規模ながら住民が居住していたのです。
とはいえ、前1200年前後の破壊により、ミュケナイが政治・経済的な重要性を失い、緩やかに崩壊の一途をたどることになったのは確かです。
ミュケナイと同様の兆しは、ヒッタイトにもあったと言えます。
ヒッタイトは首都ハットゥシャが前12世紀に入って間もなく破壊されています。
これもかつては「海の民」が原因とされましたが、沿岸から数百キロメートルも離れ、しかも堅固な城壁を備えた要塞都市が、「海の民」によって破壊されたとは考え難いです。
このハットゥシャの破壊はトゥドハリヤ4世の治世(前1240頃~1215頃)であったと推察され、王位を狙う従兄弟のクルンタの軍によるもの、あるいは古くからの敵対勢力であるアナトリア北西のカシュカによるものなどの説が提唱されています。
しかし、この破壊は公共の建物に限定されていることが最近の調査でわかってきており、これはヒッタイトの衰退により、王家が所持品を持ち出したうえで火をかけたのではいかと考えられています。
この観点からいえば、トゥドハリヤ4世の治世までにすでにヒッタイトの衰退がはじまっていたことになります。
ヒッタイト滅亡は近年では内部崩壊説が有力にありつつあり、疫病や旱魃、天災などが相次いだことで、ヒッタイトの大幅な弱体化が生じ、これによりカシュカをはじめとする外敵の侵攻を受けやすくなったものと考えられます。
「海の民」の侵攻が完全に否定されたわけではありませんが、ミュケナイ諸都市と比べるとその可能性は極めて低いと言えるでしょう。
ミュケナイやヒッタイトの衰退について考えられるもう一つの要因が、「外民族」の存在です。
しかし、これは「海の民」の攻撃によるもの、というわけではありません。
ミュケナイやヒッタイトは、国際貿易によって支えられた側面があります。ヒッタイトは旱魃や飢饉のたびに食糧を、
ミュケナイは交易国家よろしく銅と錫(いずれも青銅の原料)、香料、ガラス、黒檀などを盛んに輸入していました。
交易ルートが遮断されると、外国経済に依存するこれらの国家は大打撃を受けます。なかでも青銅器時代の当時において最も重視されたのが錫であり、その戦略的価値は今日の原油に相当するとすら言われます。
この交易ルートが、「外民族」によって寸断され、ミュケナイやヒッタイトの衰退が徐々に始まった、というものです。
交易を断たれたヒッタイトやミュケナイの衰退が、同じく交易相手国であったエジプトやシリア諸都市、場合によってはカッシートにまで波及し、
最終的に東地中海の諸勢力の崩壊を招いた、となります。
では、その交易ルートを寸断した外民族とは誰なのか?
これこそ「海の民」なのか、はたまた別の民族なのか、その結論はまだ出ていません。
しかし、この「海の民」をめぐる一連の議論では、
「海の民」が存在することで、原因を一つに求めようとしてしてしまうことに問題があったと言えるでしょう。
確実に言えることは、
「後期青銅器時代の崩壊」あるいは「前1200年の破局」は、複合的な要因が折り重なった結果生じたパーフェクト・ストーム現象、
すなわち厄災の同時多発的な連鎖によって、東地中海の一つの時代を終わらせたのです。
歴史に限らず、世界のあらゆる事象は、必ずしも単一の原因によるものとは限りません。複合的な要因がどのように重なり、最終的に収斂していくのか。
これは世界史を見る上でも、とりわけ必要な観点と言っていいでしょう。
この「後期青銅器時代の崩壊」と同様の事象は、何もこの時期だけに限ったものではありません。
例えば、紀元後3世紀は、気候が寒冷化したことで後漢やローマ帝国といった大国が経済的に行き詰まり、
184年の黄巾の乱を震源に後漢の全国統治が破綻すると、
漢とローマとの交易を担った、クシャーナ朝やパルティアといった大国や、
中継貿易で繁栄した東南アジアの扶南や南インドのサータヴァーハナ朝などの諸勢力の衰亡を招くことになります。
加えて、1929年の世界恐慌や、2007年のリーマン・ショックに端を発する国際金融危機なども、その延長上にあると言えるでしょう。
* * *
「海の民」がもたらす教訓、
それは国際経済の結びつきが強まることによる危機の連鎖だけでなく、
複合的な要因をどのようにして読み取るべきかという問題なのではないでしょうか。
新課程の「探究」でも、こうした世界/地球規模での観点を育むコーナーが、各教科書でも取り扱われています。
歴史を通じて多面的な視座や思考を養う、そのきっかけは私たちが気付いていないだけで、そこかしこに遍在しているのかもしれません。
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今回はここまでです。
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