中山公男『絵の前に立って』岩波ジュニア新書
社会の授業で「白い地図に調べた事を書き込む」という学習をした事がありますか?
岩波ジュニア新書というのは、岩波新書の中高生向けバージョンなんだけど、別に大人が読んでも良いのです。
簡単な言葉で、要点を押さえて書かれているので、疲れたオッサンがユルユルと読むのにも適している。
もちろん、簡潔に書くという事は、端折ったり単純化したりしている部分も多いので、物足りなかったり、ハテナと思う所も多いのだけど、むしろ、そうやって疑問に思うことから勉強というのは始まるのでしょう。
そんな感じで、美術について勉強を始めたい時は、この本を手に取るのが良いかと思います。この本で取り上げられている画家、作品は、日本で人気のあるものばかりで、日本語の書籍などの資料も豊富で、そもそも日本の美術館で見られるものばかりです。巻末にも、取り上げられている芸術家の時代背景、見ることができる美術館についての簡単なガイドがあります。
初版が1980年なので、情報が古かったりしますが、その辺を確認していくのも、また楽しい。
しかし基本的に、この本に書かれている事に、ほぼ間違いはありません。ごく基礎的な事だけだからです。例えるなら、国の輪郭だけ描かれた白地図のようなもの。
白地図に描き込みをしていくように、この本に書かれていない事を埋めていきましょう。
参考までに、以下に自分の書き込みを上げてみます。
ミレー。
この本は、近代絵画を扱っています。
近代絵画は、画家が自分の生きている時代に、自分が目にしている光景を描くところから始まりました。
それまでは人々の思考の基盤は、宗教や歴史などであったのが、同時代の現実と向き合うようになったのが近代。
画家も、肖像画や風俗画以外で、自己の意思の発動として、同時代の現実を主題にするようになりました。
その初期の代表が、ミレー、クールベ、マネです。
ミレーは農民を描いた画家と言われていますが、本当にそうでしょうか。この本には載っていませんが、『鵞鳥番の娘』や『羊飼いの少女』『編み物の手ほどき』などは、妙に可愛らしすぎる。リアリズムよりも、理想化されたキャラクターのように見えるのです。ロココ時代のブーシェやヴァトーが理想郷として描いていた田園のイメージを、また引きずっている。付け加えるなら、聖書から採られたテーマも多くて、『種を蒔く人』はイエズスの例え話に出てくるし、『落穂拾い』も、元をたどれば旧約聖書「ルツ記」にたどり着く。
もちろん、ミレーは現実の農村を見ていたのでしょうけど、作品を作る段階では、まだ過去の美術の発想から、完全には離れられなかったのではないか。
クールベ、マネ。
その点、クールベはリアリズムの作家と言えるでしょう。もちろん、ミレーが過去のキリスト教美術や、パストラル・ロマンスの影響下にあったように、クールベのリアリズムも、カラヴァッジョに始まりドラクロワに至る、現実の持つ迫力や存在感を伝えようとした系譜に繋がっています。
クールベの作品には、現実の苛烈さを突き付けてくるような厳しさがありましたが、マネはその逆で、目の前にいる女性の美しさを賛美するような、現実をむしろ肯定しています。
もはや、ミレーのように理想化も信仰も必要なく、クールベのように厳しさや迫力を必要ともしません。現実をそのまま作品にすることに、意味と価値を見出しています。
モネ。
チューブ式絵具が発明され、外で絵を描くようになって、光の明るさを再現するために、絵具を混ぜずに隣り合わせに描く、視覚混合の技法が発明され、印象派が始まった。
と、よく言われますが、さて?
実際には、視覚混合の技法や、筆触を生かした描写は、昔のドラクロワやベラスケスも使っていました。それどころか、糸やタイルという、限定された色しか使えない、タペストリーやモザイク画まで含めれば、視覚混合の技法は太古の昔から使われていました。
印象派の革新的なところは、そのコンセプト。
出発点は写実主義でした。自分の眼に映るものを、いかにすればカンバス上に再現できるのか? 目の前の現実を描くべしという、ミレー、クールベ、マネから受け継いだテーマであることは間違いありません。
一方で、写真が発展・普及してくる。色や形を写す、というだけではいけない。写実という行為の意味を、さらに掘り下げる必要がある。
その結果選んだのは、人間の視覚のメカニズムに、意識的にコミットすることでした。描く対象そのもののみではなく、光を介してそれが感知されるシステムまで取り込んで、作品を作る。
その結果、モネの出した結論は「色彩は、光が網膜に感知された結果として発生する。見られている対象、そのもの自体には、色彩はない」でした。
モネはそれを証明するために、積み藁を、大聖堂を描きました。正確には、それらの反射する光を描きました。睡蓮の池も、描いたのは睡蓮の池そのものではなく、水面に反射しきらめく光、葉や花が照り返す光でした。
もちろん、モネは睡蓮の池を愛していたでしょうし、美しいと感じていたと思います。しかし、モネが美しいと思っていたのは、睡蓮の池そのものだったのでしょうか?
それとも、睡蓮の池から反射してくる光だったでしょうか?
あるいは、その光が、自分の網膜の上に結ぶ映像だったのでしょうか?
モネは晩年、視力を失っていきます。最晩年には、ほとんど見えなかったのに、睡蓮の池を描き続けたといいます。
睡蓮の池は、モネの晩年にも、変わらず美しい光を輝かせていたでしょう。しかし、それはモネの頬を温める事はあっても、その眼に映像を届ける事はありませんでした。
色彩の美しさは、網膜の上にこそ発生するものだったはずなのに、それを網膜が感じる事がなくなっても、睡蓮の池は輝き続けている。それはモネにとって、どういう意味を持っていたでしょうか?
モネが、ほぼ視力を失った状態で描いた睡蓮の池の絵は、いったい何を描いたものなのでしょうか?
ルノワール、セザンヌ。
ルノワールは、そこまで光に囚われていなかったようです。最初は裸婦の肌に紫の斑を描く、典型的な印象派でしたが、次第に大きく変化していきます。裸婦の肌はしみ一つない滑らかなものになり、少女の金髪も滑らかに、濃い薄いはあっても、影はありません。光はまるで、彼女たちの乳房や額の内側から零れてくるみたいです。
筆触は、明暗や色彩ではなく、質感や、彼女たちの雰囲気を表すためにコントロールされているようです。
モネが、対象そのものの色彩ではなく、自分が感じ取った色彩を描いたように、ルノアールも、自分が感じ取った触感や体温を、カンバス上に再現しようとしたのだと思います。
モネにとっての色彩が、ルノアールでは質感だったとするなら、セザンヌのそれは形態でした。
有名な「対象を、球・円錐・円柱に分割せよ」という言葉。
視覚混色で、光を、赤・緑・青の三原色に分割したように、形態も、基本の三種類で全てを合成しようという試み。
出発点はミレー、クールベ、マネから受け継いだ写実主義だったはずでした。しかし最終的には「印象派」の名の通り、画家の感じた色彩、質感、形態を描くことになりました。
ゴッホ、ゴーギャン、ボナール。
画家の感じたものこそが、描くべき色彩、質感、形態だ。
というのは、つまりどういうことか?
万人が共有する色彩、質感、形態は存在しない。
少なくとも画家は、あくまで個人の、その画家のみが感じた色彩、質感、形態を描かなければならない。
つまり画家は、自分以外の誰一人として見ないような色彩を、質感を、形態を描かなければならない。
ということは、画家は他の誰とも、その観る世界を、生きる場所を、共有することができない。
ゴッホやゴーキャンの孤独は必然でした。むしろ、画家という生き方を選んだ故の、義務ですらありました。
しかしそれならば、絵を描くと言うのは何のためか?
画家が見るのは、自分にしか見えない色彩、質感、形態であるならば、キャンバスにそれを現して、他人にそれを見せる行為には、いったいどんな意味があるのか?
ゴッホは、しかしそれでも、自分の感じたものが、誰かに伝わる事を、共有できることを、信じ続けました。受け入れられることを望み続けました。
ゴッホは理解者に巡り会う事を待ち続ける、絵を描き続けていればきっと解ってもらえると、受け身の姿勢でしたが、ゴーギャンは強引に理解させる、今風に言えば「わからせる」系の、攻めキャラでした。
ゴーギャンの独善というか、横暴というか、クズっぷりは、ドン引きするレベルなので、耐性のない方は作品だけ鑑賞して、人物については調べない事をお勧めします。
とめどなくあふれて、止めれば爆発してしまうイメージを、こらえきれずカンバスの上に吐き出していたゴッホ。
ゴーギャンは逆に、燃え上がるような自分の意志でイメージを盛り上げていきます。最も美しいと思った色で、そのすべてを塗りつぶせと吠える。
しかしそういった孤独を、ボナールからは感じません。
印象派の初期に戻ったような安心感。ゴッホやゴーギャンのような強烈な自我をもてあますことなく、対象に向き合っています。静物にしろ人物にしろ、モチーフに対する慈しみや敬意が、その画面から感じられます。
ボナールは孤独ではなかった。自分にしか見えない色彩、質感、形態がある事を理解してくれる相手がいた。それは目の前の、その印象を自分に与えてくれたモチーフに他ならなかったのではないでしょうか。
マティス、ピカソ。
画家にしか見えない色彩や形態が、その作品上に表されていて、だからこそ芸術作品には価値がある。
その考え方を定着させたのが、マティスとピカソです。
画家にしか見えない色彩や形態を、作品を通じて見る者に追体験させるにはどうすれば良いのか?
マティスやピカソは、画家が受け取った感覚を、画面上に再構成するという手段でそれに挑戦しました。ひとくくりにするのは乱暴ですが、マティスは色彩、ピカソは形態の再構成を試みたと言えるのではないか。
彼らや、彼らのフォロワーのように、感覚をカンバス上に再構成する手段を模索していた画家たちは、音楽をモチーフにした作品を数多く残しています。
音楽は抽象的です。一つ一つの音は、何を示しているわけでもありません。しかし複数の音が重なり、連続することで、様々な複雑な感覚が表現されます。
色や形で、それができないか?
音楽は、時間の経過や聞く位置の違いで変化します。それに倣って、絵画表現も、一つの瞬間に一つの視点から見たものを描く、という前提を放棄したら、どうなるか?
複数の視点を一つの作品に盛り込む、キュビズムの発想は、その後、映像表現の世界に取り入れられます。
同じカットを複数のカメラで撮影して、その映像を繋ぎ合わせて一つのシーンとする、モンタージュ技法。今となっては当たり前の演出ですが、その源はキュビズムにあります。
ルソー、ユトリロ、ルオー、シャガール。
かくして、芸術作品の価値は、画家の感覚にあるという事になった。
何をどのように描いているかが、どうでも良くなったわけではないけれど、どんな人物が、どんな想いで描いているのかが、何よりも重視されるようになった。
技術的には素人のルソーが、その世界観によって絶賛され、ユトリロは、アルコール依存症の治療のために絵葉書を模写したが、そこに顕れた彼の孤独や不安に、多くの人々が共感した。そしてゴッホ、ゴーギャンが再評価される。
ルオーは数多くの宗教的なモチーフを扱ったけれど、それは近代以前の作品とは全く違うアプローチだった。彼がステンドグラスの仕事をしていたのも、いささか示唆的だ。過去、宗教芸術は、他の多くの人々のために作られるものだった。ステンドグラスは、聖堂という祈りの場のためのものだ。
祭壇画、聖像、すべてはそこで祈る人のためのもの。
他人のため、公的な場のためのものだった。
だけどルオーは、祈った結果、描いた。あるいは描くことが祈る事だった。非常に個人的な祈りの発露。
シャガールに至っては、その全てが心象風景。思い出の村、故郷の風景、恋人と過ごす時のイメージ、実際に網膜に写るものではない。でも、作品を見る者はそれに共感して、彼の心象風景を、彼とともに見る。
近代以前に芸術の素材だった宗教や神話や歴史も、もちろん網膜にうつるものではありませんでした。しかしそれらは、宗教家や歴史家などの語るところのものであり、画家の内面にあるものではありませんでした。
祈りや物語は、人の心の中から生まれたものですが、外部化されたもの。本来、個々の人間の内面にあったものが、形を与えられ、共有されたもの。既に外部化され、共有化されたものを、その型式にしたがって形にするのが、近代化以前の芸術家でした。内面にあるもので、共有されておらず、形式なんてあるはずもない、そんな題材を扱うのが、近代化以降の芸術家です。
ミロ。
しかし、作品として形にできるということは、外面化も共有もできるということのはず。そもそも、人間の内面は、外部からの刺激によって形成されるもの。
コラージュやフロッタージュなどで、外部をそのまま作品に取り込んだり、オートマティズムなどで作家の内面の発露を遮断するなど、内部と外部、感覚の模索と共有の限界を探るシュルレアリスムが始まります。
ミロの作品には、原始の美術を思わせるものが見られます。まだ芸術に形式が生まれておらず、人々がその心理を衝動のまま形にしていた原始の美術の研究は、シュルレアリスムの重要な活動のひとつでした。岡本太郎氏による縄文の発見もその一つです。ミロの作品にも、原始性があふれています。
ミロは、シュルレアリスムの枠にすら収まりませんでした。
個人的には、シュルレアリスムが解き明かそうとしていた、原始や衝動そのものに近いように思われます。彼の作品は、
例えるなら、目で見る音楽です。
色は、音階が和音をつくるように溶け合い、線は、リズムのように脈打ち、形や明るさは、メロディや音量のように高く低く、大きく小さく、動きを与えます。
この後、音楽にコード理論やリズム作法といった音楽理論があるように、視覚芸術にも理論が存在すると考えられるようになります。ミロと並ぶ抽象絵画の作家、パウル・クレーはバウハウスで教鞭を採り、カンディンスキーは『点と線から面へ』などの著作を残しました。
そして時代は、芸術家個人の内面や感覚に基づく創作から、理論に従って作成する、すなわち現代芸術へと移っていくのです。
近代絵画を学ぶことで、古典絵画や現代芸術まで理解できる、そのガイドブック。
ここまで読ませておいて、こんなコト言うのはアレですが、
色々と間違っているますね。自分で書いてて、おかしいなと思う事ばっかり。
こんな風に、文字にしてみると、自分の理解と誤解の度合いが見えてきます。何を学ぶにしても有効な方法。
ただ、近代絵画は、書籍も展示も多い。そして誰もが、芸術と言って大概の日本人が思い浮かべる、ゴッホだのモネだのルノアールだのは、みんな近代絵画の芸術家というわけで、芸術や美術について学び始めようというのなら、やはり近代絵画から入るのが一番捗るんじゃないかと思います。
近代絵画を学べば、それと比較することで、古典絵画や現代芸術の理解はずいぶん分かりやすくなるでしょう。
そんな、古典と現代の間の美術についての入門に、この本は最適なのではないでしょうか。