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檸檬読書日記 モネの青は溶け、あす死ぬとしたら、川端康成の短編は詩。 1月6日-1月12日
1月6日(月)
おぉ、恵の雨だー!
久しぶりの雨、嬉しい。本当に有難い。
なんだか今日は色々なことがあった。
待たされた末に自分より後に来た人の方を優先されたり、気づいてなくて椅子をガンガン押し付けられたり(でも痛いというほどではない)、コップの中にゴミが入っていたり、席は空いているのに本人は不在で荷物だけが置いてあって座れなかったり(それもしているのが、関係のない2人という)。
後は足を2回もぶつけたり(それは不注意だけど)。
一つ一つは大したことはないから、何か強く思うということはないけれど、こうも一気に色々続くと、こんなに続くものかと驚きというか、寧ろ面白いなあと思ってしまった。
でも、荷物だけはマナーとしてどうなのかなあとは思うかもな。危機感がないというか…。
最近は色々な人がいるなあ。
1月7日(火)
ピップ・ウィリアムズ『ジェリコの製本職人』を読む。
主人公のペギーは、双子のモードと製本所で働いていた。
親はおらず、モードは誰かが見ていないとならず、ペギーは妹の面倒を見ながら暮らしていた。
朝は働き、夜は工場から持ち帰った不良となった本を読んでいた。
妹の面倒や階級の低さから、学ぶことを諦めていたが、機会に恵まれ、大学を目指すことに。
恋に悩み、妹に不安を抱えながら、夢を追い求めていく。
『小さなことばたちの辞書』の姉妹編とあり、辞書の方を読んで良かったから、読んでみた。
今回は辞書を作るのではなく、あらゆる本を作る一部分を担う人の話。
辞書の時は、主人公も辞書を作りたいと奔走していただけに関係が近かったけれど、今回の製本所とはあまり近くはない。主人公が自分を確定するために奔走するといった感じ。
1番良かったのは、『小さなことばたちの辞書』の主人公だった女性の話や、その恋人が登場して、その時作った辞書をその製本所で作るとなったことなど、辞書の方で見た人々にまた会えたこと。それがとても嬉しかった。辞書の方では知ることの出来なかった裏側が知れたりと、より一層『小さなことばたちの辞書』の魅力を感じた。
前作を読んでいなくとも全く問題はないけれど、読んでいるとより楽しめるかもしれない。でも、製本所の方を読んだ後に辞書を読むのも良いかも。
本はあんたの世界を広げてくれるのよ、と母さんは言った。でももし本を読んでいなかったら、あたしは自分の世界がどんなに狭いかを、知らずに済んだだろう。
最近考える。知らない方がいいことって、たくさんあるなと。知らない方が、それが当たり前になるから、何も感じない。でも知ってしまったら、それはとても不幸なことな気がする。知らない権利も必要だよなあと。
ただ、自分の身を守るための知識は必要だと思う。そうでないものの基準が凄く曖昧で、凄く悩ましいけど。
1月8日(水)
全然本が読めていない…。
そろそろ本から取れる栄養素が枯渇しそう。
少しは読めているけれど、全然足りないよ。
我に本を読む時間を。
糸井重里『みっつめのボールのようなことば。』を読む。
いろいろとうまく回っていることについて、
「どうしてうまく行ってるんでしょうね」と、
人々はよく考えたり質問したりしています。
その答えのほとんどは、同じになります。
「人がよろこぶことをやっているからじゃない?」
なんとまぁ、単純なことでしょう。
逆に考えたら、さらにわかりやすいかもしれない。
「どうしてうまく行かないんでしょうか?」
「人がよろこぶことをやっていないかな?」
進めていいもの、良いものはトントン拍子にうまくいくもので、悪いものは、何かに邪魔されているようにうまくいかない気がする。
1月9日(木)
『モネ 睡蓮のとき』展へ行ってきた。
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いやぁ、凄い混んでいて驚いた。
NHKで最近特集を放送されていたらしいから、嫌な予感はしていたけれど、これほどとは…。テレビの力恐るべし。自分が行ってからやってほしかったー!
とはいえ、混んでいようとも楽しめたは楽しめた。特に自分は事前にチケットを買っていたから、スムーズに入場。チケット売り場がかなり混んでいたから、行くなら事前が良いかも。
やはりモネは良いですね。殆どが何度も見ているものだったけれど、それでも響くものがあった。
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特に睡蓮は、実物を見るに限る。
モネの睡蓮、凄く好きなのに、画集やポストカードで見ると何か違うという感じがして、手元に置こうとは思わなかったり。だからそれほどでもなかったのかなあとなるけれど、実際に見るとやっぱり良いなあと惹かれる。
光を演出する加減も天才的だけれど、モネは色合いが巧みなのかもしれないと、今回見て思った。モネが作り出す色、溶けるような青が、自分は好きなんだろうなと。
印刷すると、どうしても実際の色味とは違ってしまう。大概は色味が濃く出来上がってしまう。それを踏まえて印刷する際は調整しているのだろうけれど、やはり何処か違ってしまう。きっと、モネが生み出す色味のバランスがあるのだろうなあ。
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モネの絵に限っているだけか、あっという間に見終わってしまった。(かなり混んでいただけに、自分がいつもよりパパっと見てしまったせいもあるだろうけれど…。また最短を更新してしまったよ)それでも、満足度はかなり高かった。
モネ展を見終わった後は、田原町へ。
あまり期待せずに『ペリカンカフェ』に行ったら、運良く入れたからお昼をペリカンで食べることに。
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ハムカツサンドと、菊芋のスープ。
ハムが凄いボリュームで、食べ応え抜群だった。菊芋のスープは、優しい味わいで沁みた。クルトンが、元が美味しいパンを使っているだけに、最高だった。
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後、フルーツサンドも注文。優しい甘さの生クリームと様々なフルーツの酸味と甘みが合わさって、最高だった。何よりパンが美味しい。もっちりとして、フルーツサンドは本当にパンが決め手だよなあと改めて思った。
いやはや、普段食べないものを食べてしまった。こんなに肉をとったのいつぶりだろ…(2切れだけど)。多少の罪悪感はあるけれど、明日は毒消しして帳消しにすればね。うんうん。それに多少はとらないと、拒絶反応が過敏になってしまうからね。うんうん。たまにはたまには。
お昼を食べた後は、かっぱ橋散策。たくさん買いたいものあったけれど、結局見すぎて満足してしまって、ピーラー1つだけ買って帰った。
いやぁでも、東京って本当に外国の方が多くてびっくりする。日本ではないみたい。
1月10日(金)
また雨降ってくれないかなあ。降れ降れ降ってくれー!
大岡信『新 折々のうた2』を読む。
虫籠に虫ゐる軽さゐぬ軽さ
同じ軽さでも、全く違う軽さがある。深いなあ。
寺山修司『あした死ぬとしたら 今日なにをするか』を読み始める。
寺山修司の生と死に関して書かれた文章を集めたもの。
「生が終わって死が始まるのではなく、生が終れば、死も終るのだ。死はまさに、生のなかにしか存在しないのだから」
確かに。生がなければ、死も存在しない。当たり前のことだけれど、忘れがちになるなあ。
1月11日(土)
えぇ!『xxxHOLiC』の連載が再開するの!?漸くですか…う、嬉しい。待ってました!
『カードキャプターさくら』の連載が終わったようだから、もしかしたらと淡い期待をしていたけれど、再開してくれるとは…!ありがとうございます。
いやぁ、楽しみだなあ。そのまま完結までやってほしい。
『xxxHOLiC』の他にも、途中で止まっている『GATE 7』も連載再開されないかなあ。あれ結構好きだっただけに、長年お預けが辛いぜよ。歴史とか和っぽい感じが良いんだよなあ。相変わらずの絵の美麗さに、日本の和の感じが凄く合う。『xxxHOLiC』が終わった後でも良いから、再開されないかなあ。
寺山修司『あした死ぬとしたら 今日なにをするか』を読み終わる。
あらゆる思想には、それぞれの正当性はある。
どんな犯罪にだって、どんな戦争にだって、それなりの理由があったりするのである。
大切なことは、そうした場合に一つの決定論に身をまかせてしまわずに、一度は疑問符をさしはさむということなのではないか。
友よ、疑問符をいっぱい持とう。
そうすれば、より多くの答によって世界全体とつながるのだから。
全て起きていることには必ず理由がある。それは多数が唱えている理由とは違う場合もある。多数だから、決定されているからといって、それが真実とは限らない。
多数の意見や決定を、ただただ受け取るだけでなく、1回立ち止まって疑問に思うことが大切なのではないかなあ。周りに振り回されず、自分自身で考えること。それが生きていく上でとても大事なことなのではないかなあと思ったり。
日本では信じることが美徳とされ、疑うことは相手に失礼という風習がある気がする。でも通常、疑わずして信用は生まれないと思う。言われたことをただ鵜呑みにするのではなく、一旦疑い考えることで、自分はこれを信じるとなるのではないかなあと。その方が、恨みは生まれない気がする。自分で決めて判断したことだから。裏切られたとはならないような。
だから友よ、まずは疑問を持とう。疑おう。疑うことは、悪いことではない。相手を信じるためにすることだから。
『鶴の恩返し』を母親がした時の話。
苦労して私を育てると、私がその恩返しにツルのようにわが身を亡ぼしても母のために働くというのが母の夢だったのでしょう。
だが、よく考えてみると、母が子を育てることは、そうして見返りを期待するようなことではない。
ギブ・アンド・テイク。与えた分だけ受けるといった計算ずくで、人を愛したり、面倒をみてやったりするというのは、あまりにもさもしすぎという気がするのです。親子のあいだだけではなく、長い一生のあいだには人を助けたり、助けられたりすることはたびたびあります。
しかし、だからといって一々、そのことの「お返し」を期待しているのでは、くたびれてしまいます。
「お返し」を求めるのは、自分の身をも亡ぼすことな気がする。特に親が子に求めるのは違うような。子育てはボランティアだからね、自分の世話をするために産むというのは悲しいよ。
そして寺山修司は、そもそも「恩」という字は必要ないのではないかと言う。
「恩」ということばは好きではない。恩を忘れぬということは、過去の関係にこだわるということであり、べつの言い方をすれば、恩もわすれぬが恨みも忘れぬ、ということになるのです。
過去の愛憎、恩怨の帳尻をあわせることばかり、くよくよしている人間は、現在を独立したものとして受け入れることはできない。
恩というか、誰かからやってもらった親切は忘れない方が良いと思うけれど、自分がやった親切は忘れても問題ない気がする。
死をかかえこまない生に、どんな真剣さがあるのだろう。
明日死ぬとしたら、今日何をするか?
その問いから出発しない限り、いかなる世界状態も生成なれない。
「ぼくは長く生きられない」と友人に言っていた寺山修司。「死」が近かったからこそ、寺山修司の作品は幻想的でも厳しい現実味が強く、残酷さと苦さが含まれているのかなあと思った。
そして自分は、死を意識している人の作品に凄く惹かれる。死を意識している人は、同時に生を強く意識しているから。だから寺山修司の作品は、妙に惹かれたのかもなあと、この本を読んで思った。
価値観というのかは別に多くが同じということではなかったけれど、とても興味深く読めた。この本で、より寺山修司を知りたくなった。やはり色々読んでみたいなあ。
年齢や健康かどうかなど関係なく、死というものは突然訪れるものだと思う。だから自分も、これからはより明日死ぬかもしれないということを意識して、1日1日を大切に過ごしていきたい。この生を後悔しないためにも。
1月12日(日)
大岡信『新 折々のうた2』を読む。
糊箱に踊る鼠の夜寒かな
糊は、原料米。つまりは鼠のご馳走。実際起きたらゾッとするけれど、想像だけだと楽しい気持ちになる。
糸井重里『みっつめのボールのようなことば。』を読む。
シンプルがベストなんじゃない。
よきシンプルがベストだ。
本当にその通りだよ。シンプルを追求しすぎて、使いづらくなったものが多い気がする。シンプルではなく、良きシンプルを求めているのです。
『対談 日本の文学 わが文学の道程』を読む。
「川端康成と三島由紀夫」編を読み終わる。
川端康成の話。
『掌の小説』という短編をおさめた本、あれらを三島由紀夫が「あれは川端さんの詩集みたいなもんだろうな」と言っているのが興味深かった。まだ読めていないけれど、川端康成の短編は「詩」というのは、なんだか分かる気がする。何処が、というと上手くは言えないけれど。感覚的に。
そしてその短編を、川端康成は1作品につき1日で書き上げていたのいうのだから、凄いなあと。
後は二人が、日本人は評論や演説が下手、外国人はそれがうまいと言っていて、確かにと思った。評論は分からないけど、演説は本当…。基本的に嫌われたくないとかあったりと、自分を出すのが苦手な種族なのかもなあ。
川島 ……しかし僕、川端さんの小説の映画化・激化されたのは嫌いだな。それはもうほんとに不可能ですよ。
この文を見て、三島由紀夫のこういうはっきりしたところが川端康成は好きだったのかなあと思った。川端康成は割とふらふらっとしてるから。(勝手な想像だけど)
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
皆様の明日が素晴らしいものになりますよう、願っております。
ではでは。