じぶんのまわりに敵をつくらないことが、ヤマ・ニヤマの道
結局朝の6時まで書いていた…
どうしてもその日のうちに書いておきたかったの。
さて、深夜に書いたnoteの前半はこちら。
じぶんのまわりに敵をつくらないことがヤマ・ニヤマの道
またまたいきなりなんの話〜?ですねー。
これはヨガのお話です。
以下、今受けているLataさんのヨガ哲学コースで教わったことをシェアしながらお話しします(「」内、ヨガ哲学コーステキストより引用)。
まずはヤマ・ニヤマとは?
ヨガにはひとつずつ順番にクリアしていくといいと言われているステップがありまして、"ヤマ"と"ニヤマ"はそのうちの最初のステップワンとツーになるわけです。
ヤマは禁戒、つまり「習慣を取り除き、基本的な生活環境を整える」ことを指します。
ヤマのなかにあるのは、1. アヒムサー(不殺生・傷つけない)、2. サティヤ(嘘をつかない)、3. アスティヤ(盗まない)、4. ブラフマチャリヤ(禁欲)、5. アパリグラハ(貪らない)の5つの教えです。
そしてニヤマは勧戒と呼ばれ、「ポジティブな習慣を身につけ、基本的な精神環境を整える」ことを指します。
ニヤマにも5つの教えがあって、
1. シャウチャ(清浄)、2. サントーシャ(知足)、3. タパス(修練)、4. スワディアーヤ(宇宙の智慧の獲得・自己探求)、5. イーシュワラ・プラニダーナ(すべての存在に神を見て、捧げる生き方)というもの。
Lataさんのヨガ哲学クラスでも、このヤマ・ニヤマを一番最初に、そして前半を通してみっちり習ったほど、ヨガ的に生きるうえで土台になる大切なパートであり、
哲学コースがはじまってまず、日常でヤマ・ニヤマを意識して過ごすようにと言われました。
とは言え、今まではほとんど意識できていませんでした。
コースを受けているにも関わらず、"無意識"になること、今までの視点で世界を見続けることで、
いかにじぶんがヤマ・ニヤマからかけ離れた生き方をしているかを見なくていいようにしていたのだと思います。
しかし、せっかくヨガを暮らしに取り入れて、変わるための新しい視点を鍛錬しようとはじめたコースなのに、わたしは"変わらない"ことに固執していたのですね。
その結果、現実はなにも変わらず、じぶんに苦しい思いをさせ続けていました。
真理を突いた姉のひと言
今日、姉と話してそのことがハッキリわかりました。
わたしは、どこか家族を下に見ていた。
"このひとたちみたいにはなりたくない"と。
"わたしの居場所はここじゃない、無条件にわたしを受け入れてくれるひとがきっといる"と思っていた。
それはときにヨガ哲学のクラスであり、SNSの今ここにはない世界であり、そして存在するかもわからない、頭のなかの想像の居場所だった。
あなたにとって、耳心地のいい言葉を言ってくれるひとだけがあなたの居場所になったら、あなたは成長しない
姉の言葉が耳に痛く、こころに沁みた。
家族のなかに嵐が吹き荒れてゴチャゴチャのとき、わたしはいつも外に向かっていくことが不安だった。
太陽星座が蟹座だからなのか、家のなかとわたしのなかはつながっていて、
家族とうまくいっていないと、いくら社会で人付き合いがよくても、なんだか後ろめたくなるのだ。
じぶんがひとを欺いていることを、いちばん近くで見て知っているのはわたしだから。
あらためましてヤマ・ニヤマ
そんなわたしは、ヨガ哲学の知識はあっても、それを実生活に活かして智慧として体得することはなく、とてもヨガ的に生きているとは言えなかった。
どうせわかってもらえないからと、正直な想いを言えずにいた。
そうして、家族が受け入れてくれそうなことを上辺だけ並べ立てて取り繕って、思いつきの言動で家族をふりまわし、傷つけた。
‥‥サティヤ
そうして、本音を隠して生きた時間を、"ほんとうは…"とあとから切り出すことで、また家族を裏切り、そのきもちを傷つけ、彼らの時間を奪ってしまった。
‥‥アスティヤ
それは、「じぶんがほんとうに望むものにエネルギーを集中して注ぐ」という"ブラフマチャリヤ"の教えにも反するものだった。
そしてなにより、こういう状態でいることで"じぶんを苦しめ、傷つけ"ていた。
‥‥アヒムサー
アヒムサーとは
という深い意味がある。
ひとのことも、じぶんのことも傷つけないというのがアヒムサーの大事な教えなのだ。
また、ニヤマの"サントーシャ"が、
ということから、じぶんの苦しみを生み出していた原因も見えてきた。
ヨガは
と言われるように、こうして目を背けていても、向き合いそれに氣づくきっかけが運ばれて来るのだ。
Lataさんがクラスでもよく言うことは、「ヨガには"禁止"はない」ということ。
ヤマ・ニヤマは、"決まり"や"ルール"ではなく、その教えをもってじぶんの在り方を観察する"目"なのだと思う。
じぶんのまわりに敵をつくらない
わたしは、優劣や批判の目を通してひとをジャッジし、見下していた。
そしてじぶんに不正直で、思いつきで言うことをコロコロ変え、家族から"嘘つき"と呼ばれ、信頼できないと言われた。
わたしは家族に"無条件"にわたしを受け入れてほしかった。
でもどちらか一方に、"わたしを受け入れて"は暴力なのだ。
それは、"条件"というものをいっこ、またいっこと、要らないものから外していった先に、相手と目線を合わせていくお互いの歩み寄りなのだと思う。
わたしが"無条件"に相手に受け入れてほしいなら、わたしもじぶんの言動でひとを傷つけたことを受け止て、軽はずみな思いつきを口にしないことをじぶんに誓う必要がある。
なによりそうやって、じぶんがじぶんと約束をするということは、じぶんの行動には約束として果たすべきほどの価値があるともう一度思い出すこと。
逆に言えば、わたしはじぶんとの約束を守れないほど、じぶんをないがしろにしていたということでもあるのだ。
だから、"わたしなんて"とじぶんを卑下しているうちは、じぶんの行動がいかに世界に影響を及ぼしているのかに氣づけるまで、そのアラームはなんどでもわたしを呼び覚まし続けるだろう。
それはつまり、わたしがじぶんとの約束を守り、じぶんとの信頼関係を取り戻せるようになって、じぶんの行動の及ぼす影響力を正しく知り、じぶんの行動に責任が持てるようになるということ。
その"じぶんが影響を及ぼせる範囲"はつまり、じぶんがどれだけのひとを幸せにできるかということでもある。
だからまずは、"じぶん"を幸せにすること、大切にすること、傷つけないこと、というアヒムサーからすべてははじまる。
それはまわりに"優劣"や"善悪"の差、言い換えれば"敵/味方"、"(じぶんの)内と外"という区別をつけないということ。
それがヨガの道の最初のいっぽであり、永遠のゴールなのかもしれない。
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