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テクネ・オブ・エクリチュール①アルケー編

桜木花道「洋平...きのうは やっぱりオレ...けっこうスゴかった...?」
水戸洋平「あの大歓声がきこえなかったのか?」
桜木花道「オレ...なんか上手くなってきた...」
水戸洋平「ハハッ! 天才なんだろ?」

井上雄彦(1991-6年). スラムダンク. 11巻. 集英社.

驕りなのか、余裕なのか、焦らない「この私」

「これが、2年目の驕りというやつか。やれやれ。」
ちょうど先月、2度目の中間レポートをこなしながら(というのも春学期は学期末のエッセイのみ)、ふと「なんでこんなに私は余裕ぶっていられるのだ!」と自分を責めた。というのも、去年のこの頃は勝手もわからず、その週は割と毎晩深夜遅くまでレポートと格闘して、やっとのことでなんとかボロボロのレポートを提出したのをよく覚えている。
これが、2年目の驕りというやつか。やれやれ。そう思いながらも、自分でもその後がどうなるか楽しみだったので、その余裕ぶった態度がどこまで続くか観察したいと思った。しかし、「まだ慌てるような時間じゃない」とでも言いたげな「この私」は全く焦りを見せない。課題レポートに関連する(または、全く関連しない!)読みたかった本を読みながら、締め切り前日までノートにまとめていた。
しかし、蓋を開けてみると、当日の朝、午前9時から午後2時までの5時間の間に、1,500 words(日本語だと3,000字ぐらいのイメージ)のレポートを2本(計3,000 words 日本語だと6,000字ぐらいのイメージ)とも書き終えて、サクッとお昼ごはんを食べた後、締め切りまでの残り2時間で推敲と校正を終わらせて2本とも提出期限内で提出することができた。
私にはもう、白紙の恐怖がなくなっているのかもしれないと思った。上手くなっているかどうかはともかく、なんか書けるようになってきていると実感した。

ありのままの姿のテクストを正しく読むことの重要性

「13点差のどこが大健闘なんですか。」
去年の中間レポートの採点結果は、どちらも65点/100点満点(これが20点満点に圧縮され、期末レポートの結果と合算されて、最終的な成績がつけられる)。平均よりちょい下ぐらいで、数字を見た時は安心した記憶がある。そして、私よりも下の成績のクラスメイトがいることにも驚いた。それぐらい酷い出来だったという自己認識は持っていた気がする。
それぞれの先生との個別指導[Tutorial](成績が発表されると、この時間でその評価に対するフィードバックと期末レポートの相談を行う)の時に、どちらの先生からも'Excellent work'とか'You did a great job.[大健闘だったよ]'と言われた。が、こっちはね、それぞれのクラスで75点と78点が最高得点だったことは成績詳細からわかっているわけで。本当に心から「13点差のどこが大健闘なんですか」と思ったが、流石に赤木のパロディをしても伝わらないだろうしで、「どうやって改善していけばいいですか、率直に教えてください」と聞いた。
すると、先生が「これは得意不得意の問題で個人の好みもあるからはっきりとは言い難いんだけど、君は何かと何かを繋げるのは得意だけど、テクストをありのままに読むことは苦手なように思える」と本音で話してくれた。
そして、もう一方の先生との個別指導[Tutorial]では、「正直、全然読めてる気がしなくて、なんていうか、先生や周りの学生のテクストの解像度に比べると、私の言葉に対する感度は低すぎる気がするんですよ」と相談すると、「どうしてそう思ったの」と聞き返されたので、「例えば、私が重要だなと思ってメモ取った場所は全く授業中に触れられない一方で、私が全く気にも留めない箇所に長い解説が加えられ、いい議論に繋がっていたりするから」と返す。「だから、どうしてそれが読めてないことになるの。君の読みの方が正しいかもしれないでしょ。授業や文献の解説から何かを理解することよりも、自分が重要だと思ったことを相手に理解させることの方がよっぽど重要だよ」と言われた。
今でもそうだけど、去年のこの時に「まだ、私は哲学というゲームのルールが分かっていない。」って思った。(そして、2年目の今、一つだけ言えることは、明確にそのルールが分かってないことが分かってきている気がする。)

中堅には反り立つ壁、埋まらねぇ上との差

「君の声が聞こえない」「抵抗を示すんだよ、抵抗を。」
去年の冬休みから春学期にかけては、テクストをありのまま、つまり文字通りに「文字通りに読むこと」を意識して、秋学期の期末レポート(2本)、春学期の期末レポート(2本)に取り組んだ。それぞれ、70点、75点、72点、72点。割と満足のいく点数だったが、どうも3~5点ほど、最高得点との差が埋まらない、圧倒的に埋まらないという事態に陥っていた。
別の先生との個別指導[Tutorial]で、思い切って「この3~5点差の差分って、率直になんなんですかね?」と聞いてみたところ、ここでも本音ベースで指導してもらった。

「主な一次文献、そして二次文献ともに網羅的に、そして正確に読めているとは思う。おそらく、リサーチ力、そこから得られた知識量、そしてそれらを組み合わせる洞察力において、君に優っている人を見つけるのはかなり困難だろう。トピックもあえて難しい課題を選んでいて、挑戦的で野心的だと思う。ただ、たまに残念に思うのは、あまり君のテクストからは君の声が聞こえないことなんだ。結局、『このレポートの著者は何を言いたかったのだろうか』と改めて考えた時に、どうしてもこれぐらいの点数差をつけたくなってしまう。」

また、違う先生からも同じような話で「これまでそういうトレーニングを受けてきたから、っていうのも十分に承知しているけど、社会科学的な方法が唯一の書き方じゃない。そこから飛び出してみるぐらいの覚悟で書いてみたらどうだろう。抵抗を示すんだよ、抵抗を。テクストの上で。」みたいなことを言われた。奇しくも、どちらも仙道が流川に1 on 1を終えた後にかけた言葉と響き合っていた。「1対1もオフェンスの選択肢の一つにすぎねえ それがわからねえうちは おめーには負ける気がしねえ」
とりあえず、私はクラス一の大学院生になりたい。つまり、最高得点を叩き出してみたい。そのために、危ういテクストを書く練習をしようと思った。しかし、どうやって?ねぇ、どうやって?

まだまだ発展途上、でも出せるようになった声

「自信がついてきたんじゃない?」
それぞれ3時間で書き終えた1,500 wordsのレポート、2本。去年よりも断然短時間で、しかも割と良いものが書けたという自負もあった。それが先生方にどう評価されるかは別として。
返ってきた成績を見ると、78点と75点だった。そう、大学院入学して1年とちょっと、初めて私はクラスで1番になれた(クラスと言っても15-20人の中でね)。この時の私の喜びようはいつまでも忘れないだろう、沢北哲治が後に栄治の中学入学時のこと回想しそう語ったように。私は、白紙の恐怖に怯えることなく書けるようになってたし、そして実際上手く書けるようにもなってきたのである。
それぞれの先生との個別指導[Tutorial]があり、その第一声は「なんか、精読の訓練受けてたっけ?」だった。素直に嬉しかった。「普通は、課題文が短くなればなるほどそこから逃げ出して、無理やり書ける範囲を広げてしまうんだけど、君のレポートは粘り強く課題文に留まっていた」と評価された。
学期末のエッセイも楽しみにしていると言われたので、考えていたアイディアを共有すると「それは君の哲学的関心とも近いから、かなり挑戦的だけど頑張ってみるといい」と言われた。ざっくりとした修論のアイディアも相談したところ、「その組み合わせは素晴らしい。その3人をその軌道で整理する人はこれまで見たことないけど、君の意図は手に取るように分かる。そして何より、その意図は分かるのに、全くどんな論文になるか想像もつかないところが楽しみだ」と言われた。
もう一人の先生との個別指導[Tutorial]では、「楽しみながら書けたようにテクストからは伝わってきたけど、どうだった?」と聞かれた。「それは抵抗の痕跡ですね、必死にそこから離されないようにテクストにしがみ付いていたから、そう読めたのでしょう。でもテクストから私の声が伝わったようで良かったです」と返した。
「だいぶ、文章も書けるようになってきてるし、自信がついてきたんじゃない?」という質問もされたので、正直に以前は二次文献から自分の声に似た声を探し、それを切り張りして自分の声に近い声を表現していたけど、最近は逆で、テクストをありのまま読み込むことに時間をかけて自分の声を見つけ、そこから二次文献の声と自分の声の違いを探して、補強というよりは批判的に二次文献を使うようにしています、と伝えた。すると、その先生からは

「それは、驚いた。だって、ほら、君のクラスでの発言[Class Contribution]はいつもオリジナリティーに溢れているでしょ。他の学生の質問やコメントは、その背後に誰がいるかがすぐ分かるというか、例えば、ほら、ドゥルーズ、デリダが見えたり、シクシー、ラリュエル、バディウやランシエールが見えたりするんだよね。でもあなたの質問やコメントからはそれを察するのが本当に難しい。だから、二次文献に頼ってた時期があったとは意外だったよ。」

「単にそういった哲学者を見えないようにしているだけかもしれないし、そもそも頼れるほどその人たちの本を読んでないだけかもしれません」と答えておいた。でも、そこを見てくれていたんだと思い嬉しくなった。
私は過去を美化し、今の自分を責めていただけなのかもしれない。Put on a Happy Faith! だ。私はそろそろ私自身を信じていい頃だ。今の私はもう十分に、あの頃を越えているように思える。

くぁ…… ……さて… ぼちぼち行くかな…

さて、アルケーとは「始まり」とともに、根源や原理を意味する。ここでは、すでに「書くことの技術」の根源的、そして原理的な記述を散りばめてきた。次は実際に「②ヒュレー編」として2本のレポートを見てもらい、「③エイドス編」で「書くことの技術」のテクネの形を見てもらうことにしよう。
あなた方の哲学かぶれの常識は私には通用しません。素人だからね。


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ペテンの配達人
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