思い出という言葉が伴う悲しさ
こんにちは、初投稿が想像以上にスキをいただくことができて驚きと喜びでいっぱいの月瀬理依です。(スキをくださった方、ありがとうございます)
私の通学路脇には落葉樹が植えてあるのですが、先日、いつも通りその道を通った時。とても美しい光景を見ることができました。
柔らかい風が木々をくすぐると、たくさんの色づいた葉が一度にゆっくりと舞ったのです。その葉は風で散ったと言うよりも、秋という夏と冬の間で見られる特別な現象に見えました。あまりにも信じられないくらいの時間をかけて葉は移動しているのですから。なんだか、季節の隙間に取り残されたような気分になりました。
空はあの夏の燦々と降り注ぐお日様の背景になっていた青さとなんら変わりのない見た目をしているし、この道も、夏休み中に毎日部活のために歩いていたことは間違いないのに。あれ、ほんとに同じ道かなあ。同じ道であることの証明ってどうすればできるんだろう。なんだか、その証明がすぐに浮かばないと言うことがすごく心細く悲しくなる…そんな気持ちになりました。
思い出って言葉は悲しさを伴うと思っているのは私だけなのでしょうか。どんなに素晴らしく、永遠になればいいと思った瞬間も、「思い出」という言葉にしたその瞬間に、それは過去のことになります。過去となったその時間が幸せであればあるほど、思い出を思い返すときに伴う胸の苦しさが増すのは私だけなのでしょうか。
「いい思い出になりました。」夏のコンクールが終わった時、ある男の子が言いました。私はその言葉を聞いた時、嬉しい気持ちもありましたが、何度も永遠になればいいと願った時間が過去になったと現実を突きつけられたことで静かに胸を痛めました。そして、もう過去のこととして消化できている彼に嫉妬していました。
「思い出」という文字を見ると痛む胸を労わるために、目を瞑ってはいけない。もし「思い出」という言葉がなければ、私はずっと季節と季節の狭間に閉じ込められてしまうだろう。紅葉した葉っぱの赤がまぶしい、そんなことを考えながら並木道を歩く秋の日でした。
(なんだか詩と日記のあいだみたいになってしまいました、今度詩にしてあげなおそうかな…私、詩と日記のあいだみたいな文章書きがちなんだよな…テスト前だからしばらく書き溜めてた詩の投稿多めになりそうだな…という独り言でした)