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小学生の頃。 電話をする母親の横顔を見ながら、ふいに、すべてを諦めようと決めたことがあった。 理解を求めることも。理想とのギャップに苛立つことも。 全部全部、わたしの勝手な期待の結果でしかない。 親という存在にわたしが何を望んだとしても、彼女は親である前に、ひとりの人間で。 そう考えれば、理不尽も、不合理も、暴言も暴力も、理想とは程遠いその他すべての言動も、許すことができるような気がした。 だからわたしは、親を諦めた。 理解してもらいたい、受け止めてもらいたいと期待するこ
忘却は恩寵だという。 辛いことのすべてを憶えていたら、心はいまよりももっと苦しいままだったろう。 けれどそれなら、忘れたくとも忘れがたく染み付いている記憶は、呪いだろうか。 「お前みたいな人でなしは、誰からも見捨てられて、ひとり寂しく死んでいくんだ」 激昂が頂点に達したとき、決まって投げつけられた言葉。 きっかけはいつも、思い出すのも難しいような些細なことだった。 たとえば、お風呂に入るのが少し遅くなっただとか。 お皿をしまう場所を場所を間違えただとか。 タオルの畳み方
朝から生理痛でダウンしている。 というわけで、年末から長らく止まっていた生理がやっときた。やれやれ。 昔からわたしの月経周期は乱れがちで、緊張を強いられる状況が続くと止まったり、気がかりが取り除かれた途端はじまったりと、ある意味、わたしの自覚よりも鋭敏にわたしのストレスを拾い上げている気がする。 今回は、新年度以降の休養のために必要な諸手続きが一段落した途端の月経だ。なんともわかりやすい。 そんなふうに簡単に月のものが途絶える度、わたしはむかし博物館で見た女海賊の記録を
冬だったと思う。石油ストーブの青い炎を覚えているから、たぶん間違いない。 おかあさんには、かぞくはあなただけなのよ。おとうさんはしょせんたにんだから、あなたがいなかったら、おかあさんはひとりきりなのよ。 そういって泣きながら、わたしを抱きしめた。それが、わたしにとって一番最初の母親の記憶。 可哀想だと思った。泣かないでほしいと思った。守ってあげたいと思った。 早く大きくなって、お母さんを守れるくらいに強くならないと。早く大人にならないと。 それが、幼い頃の私をかたちづ
人は誰しも、自分だけの地獄を生きている。 わたしがそれを知ったのはまだ小学校低学年の時で、だからごく幼い頃から、極力人を羨まないようにして生きてきた。 「羨ましい」という言葉は一見すると無邪気な褒め言葉だが、静かに確実に、相手の呼吸を奪う力を持っている。 本人にとってどれだけ辛くどれだけ苦しい状況でも、外見しか知らない人に羨まれてしまえば、苦悩も不安も不満も、口にした途端、恵まれたものの贅沢な不平になってしまう。 「そんなことないよ」と弱々しく抵抗してみても、「またまたぁ」
父は、口下手な人だ。 口下手、というと、寡黙でどこか硬派なイメージを持つ人もあるかもしれないが、彼の場合にはそれは当てはまらない。 顔にはいつもにこにこ……というかにやにやに近い笑みが浮かんでいて、何かというと蘊蓄を傾けたがる。 けれど、言葉を選んだり、話を組み立てたりすることはあまり得意ではないので、必然「あー」「えー」といった間投詞の割合が多くなる。 上手く伝わらないとイジケて途中で投げ出してしまったり、こちらが察して助け舟を出すと満足気に顔をほころばせる様子を見ていると
わたしの母は、下町で生まれたらしい。 らしい、というのは、記憶にある限りわたし自身が母の実家を訪れてみたことがないからで、わたしが知るすべては、母の記憶と言葉によってかたちづくられたものだった。 母の口から語られる下町は、「義理人情にあふれた」式の昭和の美辞にかなったものではなく、陰湿で、無責任で、どこか投げやりな世界だった。 だが決して、地域一帯がそうした空気に蝕まれていたわけではないのだと思う。 羨望を込めて語られる同級生の家庭には、進歩的で穏やかなところが少なからずあ