同じ学び方でわからないから感情に頼る

(2025/02/25 19:30以下追加更新)
解ってる人にとってわからない人、知らない人がいる。
知らない人には、これから〈知る人、判る人、そしてそれでもわかれない人〉がいる。
わかれない人はわからない人と相似的関係であるが、教えてもわかれない人はわからない人は知る人になれるかもしれない分少し認知出来る可能性がある。
わかれない人はまず脳に準備がなされていない。
わからない人は脳に準備があるのに思考が動かない人である。認知はできてるから言われた事だけは覚える。
知る人は判る人とは違い、判ったことをベースにできない。判る人は判ったことを適所的に使えるが知る人はそれができず、不適所で知ることを使う。これは故意的では理解力により差異が出る。

≪判る人≫
解ってる人が過去に解った理解の仕方で分かってくれるのは判る人だけで、他は同じ理解の仕方で分からない。

≪知る人≫
知る人は同じ理解の仕方では分からないので、別の方法の理解法で教えると理解しやすくなる。
脳で理解できた解ってる人は、知る人に身体的に実態理解(体で覚える)の言葉や方法で判る人になったりする。
この状態になると【知能の問題】は収まる。しかし、議論や討論は実感理解はないので【知能の問題】があっても進行のために置き去りにすることで保留されることになる。
時間がかかるからで別の方法の理解(言語と創造力以外)は議論や討論上では試すことさえできない。突然貧しさを実感させたり裕福さを実態理解させれないから。
そんな状況下では【知能の問題】は収まらず存在する。

≪わかれない人≫
解ってる人は色んな理解の仕方をしている。
その中で同じ方法で理解できないのは分かっている。
別の理解の方法もあるが、その違った理解でも理解できないのであればこれは【知能の問題】というよりは【知的な猜疑】となる。【知能の問題】ではない。【知的な課題を持つ】ということになる。
lLDではこの【知能の問題】と【知的な課題を持つ】ことのボーダーラインにある。

【知能の問題】であれば別の理解方法があるので時間は無駄にならないが、【知的な課題を持つ】は理解させることに時間の無駄、徒労となる。
しかし、道徳は時間の無駄だとしても理解させなければならないという矛盾、パラドックスが起こる。それは道徳は理解度に依存するからだ。理解以外の方法はない。
道徳や良心について理解しなければならないのに【知的な課題を持つ】だったり【知能の問題】があると良心も道徳も足りない。
宗教の努力はその為に神話を作ったことである。お伽によって教えようとしたのだけれど、身体的に実態理解する理解が優位のモノには理解はされない。
そこで糾弾や差別が起きる。能力の優劣が人間性(≒道徳や良心)と同質であると宗教の中の人類は感じ始める。
神話やお伽を理解できないのは道徳や良心がないからだとバイアスがかかった。
喧嘩でしか分かりあえないならと戦争や争いが存在した。
これは【知能の問題】であるが、両方とも喧嘩(実感理解)の強さという数量(大きさ、強さ)と能力の優劣という数量(高い、広い)という【知能数量の問題】にして戦った事実がある。元々【知能の問題】状態を【知能数量の問題】にして戦う状態にした両方があった。
適度な距離感で数量を埋めれなかったのだった。
だから【知能の問題】の時には戦いは起きず
【知能数量の問題】の時に戦いが起こる、競争にならないと争わない。
(2025/02/25 19:30以って以上追加更新)




(2025/02/25 20:07 以下追加更新)
何も反論要素がないときヒトは感情を理由にする。
感情意見や感情要望は反論ではないので議論としては白旗でテーマ無視の言論。
これは議論では実現可能性より改善方向性をそれぞれ話すからなのだけれど、教育がテーマであれば感情意見や感情要望はテーマにのるけど経済であったり社会であると教育がテーマではないのであればテーマ外の意見や要望でしかない。
感情部分は社会や経済で何とかするものではなく、個人や共同生活者で意見や要望を言ったり変容したりするものだから議論上で感情意見や感情要望はルールを守れないヒトでしかない。
(2025/02/25 20:07以て以上追加更新)



https://note.com/


(2025/02/26 21:19以下追加更新)

元々聞く耳を持てない中でやりくりしていた感情至上ではない人は、感情至上なヒトに『ダメだなこれ』という気持ちを持ちながらも、ここまで理解してくれればという気遣いで先に来ている話を進める。
しかし感情至上なヒトは、辿り着く前に感情頼りになってしまい理解されないと個人課題を理解されずにいることで感情至上ではない人に『ダメだこりゃ』と思う。
感情至上ではない人は待つが、感情至上なヒトは最後に頼る感情にこの時点で頼って信頼する。感情至上なヒトは主たるものが感情という自己中心性によるものだと錯誤する。
感情は決して芯んでも自身でもないので、自己同一性と自己中心性は相似ではないが自己同一性が持ててない感情至上なヒトの最後に頼るのが自己中心性による感情の心(しん)であるがこれはこころではなく、自己中な心性、自己中な能動性の事である。これが感情と共にあることで行動化すると迷惑になったり、振る舞いとなる。
これを議論や討論の中でやるなら客観性を欠き、社会性を欠いた行動でしかないのである。
つまりは感情至上なヒトは純粋に無粋に単純で真っ直ぐに社会性を欠いてるのである。

それを周りだけ受容しようとそれは異常を受容したに過ぎず普通になること一般であることではない。
感覚は通常になったものである。一般でも普通でもない 。

(2025/02/26 21:19以て以上追加更新)





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